逃走

2010.04.09 晴れ

うまくいかない理由は自分ではなく相手の性質だ、と知らず知らずに断定してしまっているとしたら怖い。自分が気づいている、でも、相手は気づいていない、そんなシーンをたびたび自分が遭遇していくうちに、どうして気づかないの、の視点が欠落し、やがて、気づけと命令を伝達する。だけど、命令は一時的な認識の効果を生み出しても、その認識は育たない。回路が切断されたままだ。自分で気づく理路の種を生み出し、それを育てる。その行為は、自責と内省が出発点でなければならない、と毎朝の日課であるチューリップを観察していて気づいた。植物は強い、でも弱い。自分が水やりや手入れを怠ると正常な反応を示す。その反応に苛立つのは自分だ。

O先生のサイト制作。コードをイメージ通りに書けない。何がおかしいのか。初めて使うCSSのフレームワークの全貌を理解できていないからか。あるいはCSSのプロパティをちゃんと理解していないからか。原因を探索。この仕事が終われば、また一つ区切りをつけられる。

15:00前に出発してF先生の医院へ立ち寄って2時間ほど作業してから19:00にM先生のミーティングに参加。自分の思いを伝達すべきかどうか悩む。自分は雇用主になったことがない。従業員かフリーランスの経験しかない。その立場でしか雇用主を想像できない。だから、自分の想像や判定が適切か否か、相当に吟味しないと伝達できない。危険だから。ただ、今回の判定は吟味の仕方がまずわからない。そこに自分は悩んでいると分析している。

帰宅後、アルバイトの資料が届いていた。やれやれ。気持ちが沈んでいるのに。でも、作業はかえって今の自分に適当な仕事だ。会計事務所の経験とアルバイトのおかげで、経営の数値に対して二方面から接近できる。これは貴重な経験である一方、経営の数値を敬遠している方々からは理解不能だと思う。自分の状態が世間のデフォルトだと錯覚してはいけない。いちばん愚かな選択肢を選ぶハメに。

経営は人。それは事実。ただ、数字という現象が存在するのも事実。両方の事実は二つの事象ではない。一つだ。二つに峻別できない。にもかかわらず、片方に意識が傾き、片方が疎かになる、あるいは苦手意識から数字を敬遠してしまう。それはしょうがない。敬遠する回路を想像しなければならない。その想像を共有できればOK. 敬遠する人は、心理を自己評価する時間と空間と他者を設定できないでいる。出力された数字を見ても、観ていない、視ていない、診ていない。

『Self-Reference ENGINE』 円城 塔 [to Amazon] がとてもとてもおもしろい。ひさしぶりにジャケットだけで買ってしまった本。内容もあらすじも何も知らなかった。読み始めてひどくとまどった。時間と空間がバラバラになって、多義性を含み、多元層化した心象と事象の心理を言葉の直線上に載せると、(主観的な意味で)こんな意味不明な小説になるんだとすごく興奮した。言葉は時間に拘束され、かつ、直線でしか描けない。言葉がジグソーパズルのようにピースへ解体でき、かつ、文法にとらわれずに、マイノリティーリポートのUIのような単語の羅列が時空的に可能だったら、伝達の概念は書き換えるのかなと想像した。SFってまったく理解していないし、このまえ読了した 『虐殺器官』 伊藤計劃 [to Amazon] も視点と発想と着眼の勉強になった。

言葉は書くだけでは伝達できなし、話すだけでも伝達できない。得手不得手関係ない。伝える意思。言葉を尽くす情熱。だから、言葉から逃走したくないな。