顔貌

2010.05.19 雨

雨。躑躅が終わると紫陽花が始まる。6月、自宅前のマンションの花壇前を歩く10人1人が足を止める。紫陽花。ちょっとした観光名所になってもよいと思うぐらい。今は大きなクレマチスが人の目を奪う。

F社のページを仕上げる。ナビゲーションとページ構造の第一次改修は95%終了。たいへん。終わりは始まり。アクセスログを収集してUIの品質をフィードバックしよう。『Harvard Business Review 2010年 06月号 [雑誌]』 ダイヤモンド社 [ドラッガー論文]の自己とフィードバック分析。ルックスはもっと手を加えて練り上げたいな。なんならサイト全体のルックスをリニューアルしたい勢い。

20:20頃、梅田の紀伊国屋書店の前でF先生と待ち合わせ。先生は石橋の大学院の講座を受講された後、時間をつくってくださった。近くの居酒屋で食事しながら話を伺う。伺うというより自分の発話比率が高いと認知。リアルタイムで反省しても気にせずしゃべり続けた。臨床哲学と研究と経営のつながりを模索。

先生との対話は映像と文字言語を整理して、理解の統合と分裂を繰り返す。先生の脳内で生成される映像を視る手段を科学技術は今のところ用意していない。いずれインターフェースが開発されたら、互いの脳内と直接通信できる。言語も同じ。脳内で生成されている単語群と単語群から取捨選択された文章と文章から構成される文脈。これら言語の集合情報を確認できない。今のところ。

脳内と躰が生成する情報量に比べたら発話された情報量はほんのわずかだ。顔貌と微量の発話情報から先生の思考と感情を推察する。以前、何かの本で「観察とはあなた方が思う観察ではない」みたいな文章を読んだ。確か、自然科学の先生だったはず。顔貌を観察していない。あわよくば推察、たいていは錯覚と幻想。

先生が脳内で生成する映像や言語を言葉や身振りの表現手段で遂行する前段階、それは沈黙、沈黙を観察しなければならない。沈黙を観察して無限の可能性から一つの感じる仕方を自分は選択する。自分ができるたった一つの努力は選択の精度の向上だ。感じる仕方を選択する自分を信じて疑う。

言葉が伝える事象は沈黙の後に発生する。その事象は意味の解釈だ。解釈は無限じゃない。無限じゃないから解釈と感受の差異を浮き彫りにして、ああ、”して”じゃない、解釈を徹底的に伝達して、自分と他者は違うと発見できる。大まかな”仕方”は似通っていても微細な点は異なる。その微細な点をとことん描き出す。微細な点の差異を発見でき、やっぱり違うな、と認識できる。認識できたら自分は先生を理解したと思う。

『日経サイエンス 2010年 06月号 [雑誌]』 日本経済新聞出版社 によると、網膜に届く情報は100億ビット/秒、網膜から送出されるのは600万ビット/秒、一次視覚野に到達するのは1万ビット/秒、高次視覚野が知覚を生成する段階での情報は100ビット/秒。

まさか、わずか100ビット/秒の情報量からヒトは複雑な心象を生産しているとは考えにくい、と論文は書いてあった。

ブログを書くと体感。F先生との対話、2時間30分の時空は、網膜へ天文学的なビット数を届ける。高次視覚野が知覚を生成する情報は、わずかであったとしても、ブログで表現できる描写はさらに削られる。世界を切り取る。

自分の心に残った残像、長期記憶へ蓄えられた言葉、目に焼き付いた顔貌、これらを統合して、音節文字と表語文字を使って時系列に並べる。でも、並べた文字が描く映像と自分が脳内で生成する映像が絶対異なる。それが自分をさらにブログへ向かわせる。いつか完璧な一致を記述できると妄想して。