禁忌

2010.08.03 晴れ

琵琶湖の表情は毎日異なる。今日はとても青く穏やかだった。湖面が青い原理を自ら学んだのはいつ頃だっけ? と思い出しながらGIOSに乗っていると危ない。GIOSに乗っている間は思い巡らせないように注意しなければならない。頭と躰を分離したら背景に透過していた事故が時空をねじってやってくる。

WPの制作。このブログのテーマはWPのデフォルト(=Twenty Ten) を使っている。未完成なのでもっとカスタマイズしたいけど、ちょっとやっかいな事態に遭遇した。テーマがバージョンアップされるとカスタマイズした箇所が上書きされてしまう。

他のテーマでもバージョンアップはある。これまで頻繁にバージョンアップされるテーマを使ってこなかった。今はWPのデフォルトテーマだから今後もバージョンアップされる可能性を残している。ちょっとやっかい。

O先生のサイト制作。イラストはおおむねOKをいただき微修正の指示を仰いだのでページを制作。

平家物語「あなあさまし、これは禁忌とこそ承れ。かかる事聞くとも聞かじ」のくだりのように禁忌は少なからぬあるのだろう。文化人類学に精通していれば禁忌の音色は他人と違って聞こえるかもしれない。

禁忌を検索すると文化や皇室制度、江戸時代、戦争など多岐にわたっているようだ。禁忌と差別の距離を積極的に測った記憶はないので両者の隙間にいかなる現実が隠れているのか知らない。

いま耳目を集める所在不明の中にはある種の禁忌が介在するケースも含まれやしないかと想像する。街中を散策しているときに町並みの連続性が途切れたり不思議な路線価があるみたいに。

テレビと新聞が生活から消え、ブラウザのブックマークのニュースサイトが消えてから空白が生まれた。空白を空白のまま残して過ごしていけるほど諦観していないし身は研ぎ澄まされていない。

だから空白を埋めるために何かしなければならない。テレビと新聞とニュースサイトが退場して新しく入場した空白を埋める作業はリハビリみたいだ。流れてくる情報や仕事で必要だからって流入させていた情報は感度を低下させていた。電車の車内放送に何も反応しなくなるかのように。

まだRSSは残っている。それを消し去る度胸とまだ出会っていない。恐怖がまだ支配している。

自分が思い巡らさないと現象は脳内に生まれない。自ら問いをつくらなければ見えない。誰かが空白を埋めてくれないし誰かが代わって現実を視てくれるわけでもない。

でも、空白は一人で埋められない。関係が作用して関係が関係を作り関係が自乗していき関係の集合の濃度が高くなる。適切な距離を維持した高濃度な関係が空白を埋める。彩られていく空白を躰と接合していく自分の感性はかかわりから感度を与えられる。