歯車

2010.10.08 曇のち雨

午前中、FI社のページの制作。一段落。午後、O先生が郵送してくださった各イラストをスキャンしようかどうか迷う。これは翌週にしてWP制作へ。

17:00前に大阪へ出発。19:00からM先生のミーティングに出席。今日はもう一人外部の方が出席。訪問診療を支援している方。自分とその方は外部の人間だ。こういう場合、特に気をつけなければならない。

気をつける点は主体。主体を見失ってはいけない。外部の人間が複数人揃うと妙な力学が働く。妙としかいえない。誰かが力の作用をコントロールできればよいが、できなければ知識や情報の展覧会を開催してしまう。外部の人は物事をどれだけ知っているかに執着してしまい、結果、意見は医院のスタッフや先生に向けられない。言葉の端々は立場の駆け引きが現れ、知識と情報の展覧会は優位に立つための道具として使われる。

僕も含めて外部の人間は知識の博覧会に出席してみんなの前でストックフレーズをよどみなくしゃべられることに快感を味わう。現場の「環境」を作ることが大事だと訴える人が知識博覧会で自分のスピーチに酔いしれているその場の「環境」を制御できないように。純粋な自己組織化の論理的不可能性を避けて通ることはできないのにあたかもそんなものはないかのようにふるまう。行為の主、プログラムするものとプログラムされるものの一致を認識しているか否かの差異が自己陶酔の発生に影響を与える。

こういう時こそ集中力を増大しなければならない。自分の存在を消し、外部の人々の気配を忘れ、スタッフが何を言っているかと医院の現場を想像して文脈のどの部分に問題が潜んでいるかへ思考を集中する。

意見が飛び交う。それ自体は評価されてよいと思う。意見が飛び交う中から問題は浮かび上がる。しかし、次のステップへ進まなければならないタイミングを見失ってはならない。「じゃぁ、次はこの問題について話し合う」で終わると次はない。「私は思う」をテーブルの俎上に載せて弁証した後は、一つでもよいから策を文章で出力する。それを目で確認して明日の行動を思い浮かべる。

判断の精度を高める。一回性の現場のなかでたとえよく似た状況であっても判断は異なるかもしれない。複数の人がいれば判断は分かれるかもしれない。判断の規準を統一できなくても各人の判断のズレは常に確認できる。1人が10人に同じ内容を伝えたのに10人全員がトップへ報告するとは限らない。報告しない人もいる。なぜだろう?

行動の確度を高める。10人が同じ作業をしても異なる成果が出力される。なぜだろう?

あたりまえだ。判断と行動が異なってあたりまえだ。ミーティングはそのあたりまえを徹底的に疑う場であってほしいと僕は期待する。形而上学や修辞学を堂々巡りするつもりはまったくない。よりよく空間が変化してシステムが構築されるために必要な方策、手段を探すために議論する。

手段は身近なものから作られる。あるいは使い回しを再利用してもよい。どうしても手段を発見できなければ開発しよう。