本番

2010.11.21 晴れ

05:50に目が覚めてO先生から届いた資料に目を通す。難しい要求が書いてあるので戦闘モードへ入りやすくなった。07:30から朝食。ラジオを聴きながら今日の段取りを予想する。08:30すぎに出発。

10:10にF先生の医院へ到着。LANの最終設定。16:00に終了。僕の出番はほとんどなかった。弱気に安堵。ちゃんと稼働した。「ちゃんと」はおかしな表現です。手順に従い規定のとおり入力してやればネットワークは正常に稼働する。当たり前の話ですね。なのにネットワークが正しく動作しないとコンピュータの仕様を疑ってしまう。まずは自分の入力を疑うべきなのに。そのへんが数百台、数千台のネットワークを組んだ経験を持っていない脆さです。

書店で 『言語・思考・現実』 L・ベンジャミン・ウォーフ を購入。ようやく見つけた。とても楽しみ。

行きの車中で森博嗣先生の 『的を射る言葉 Gathering the Pointed Wits』 を読む。読了した後も読み返している。先生は「組織」ついて書いていらっしゃる。最も良い仕事をする部署ではなく、最も声の大きい部署が生き残る。こうして組織は弱体化する。いらん仕事をする組織が多すぎるが、いらん仕事だけをする組織はない。多くの組織は新人の献身的な働きによって成立している。その貸しをベテランになるほど組織から取り返そうとするからだ。

ひとつ前の「意志」やひとつ後の「仕事」を紹介していないので、間にある「組織」だけを取り上げるとヘンな感じで、本書の特長でもある字体の変化や意図的な段落の改行とフォントの誇張を引用できないので、引用だけだと魅力はゼロに近くなる、ことはない。見た目の飾りは先生の言葉の魅力を奪えない。メディアはコンテンツの魅力を損なえないし、コンテンツが表現の王道だと教えてくださる。

立ちたくて立てない視点から着きたくても着けない着眼で観察して浮かべたくても浮かべない発想がある。最も難しい3つの要素に加えて、視点と着眼と発想を最適な言葉で表現する。質量ともに過不足なく。

目の前に物質があって稼働させなければならない期限が定められているような環境ならば本番を認識できる。本番を理解できれば本番に備えられる。準備に時間をかけられるし想定の範囲は準備の時間と比例する(だからといって完璧に想定できないけれど)。

でも、目の前に物質がないし期限が定められていないような時間と空間にいるときの本番はいつだろう。そういった時間と空間のなかでは本番ってあるのだろうか。本番とは一般に練習ではなく本式に物事を行うこと、と書いてある。「本式に物事を行うこと」とは何かをやり終えなければ本式に物事を行ったと証明できないのか。

限られた時間と物理的な空間を与えられているのに終わりを認識できない。あるいは終わりを認めたくない。でもいずれ終わりは訪れるだろう。終わりまで流れる時の中で交わされる一つ一つの言葉は行為に接続されない。行為に接続されなければ「事を行えない」し「事を終えない」のでしょうか。