魔性

2010.12.25 晴れ

06:10に起きたら部屋は寒かった。室温計を買おうかな。数値と自分の体感温度のズレを測定したくなってきた。体重計と同じ。55.8kg と思って測定したら55.2kg, BMI 20.0, 体脂肪率10〜11%(といっても信じていない) 。体感と実測の体重には誤差がある。体感の体重と実測の誤差はプラスマイナス300g ぐらいで止めたい。それ以上にズレている。躰の感度が鈍い。

O先生のサイト制作。症例の画像を補整。コピーライトの文字をすべて差し替えて現在の状況に合わせる。SEO関連の書籍やサイトを調べて施しが足りない箇所を修正。あっという間に夕方。

夕方、散歩へ(めちゃくちゃ寒かった)。本屋で 『街場の大学論 ウチダ式教育再生』 内田 樹『もえない Incombustibles』 森 博嗣 を購入。夕食の後、すぐに街場の大学論を再読(単行本で読んでいる)。

みるみる折り目が増えていく。単行本 『狼少年のパラドクス―ウチダ式教育再生論』 の表題どおり煌びやかなパラドクスに満ちている。本書の「大学」を「企業」に置き換えて読めば内田樹先生にご叱責を賜ると承知しても脳は勝手に変換し躰は折り目折り目に反応する。脳が記憶を遡るより先に躰の各部位が過去の経験を皮膚感覚しているような奇妙な読書になる。

「教育」を他の単語へ置き換えてしまう。組織の「人」と教育の「人」の構造は同定であり、「普遍的真理」を語っていると僕はみなした(「具体的なことは何も語っていない」とみなす人もいるだろう)。

なぜ、そんなにころころ態度を変える必要があるか、訝しがる人がいるかも知れない。実は、それが私の仕事なのである。大学での私の役目は、私の前に立っている人が「何を言って欲しいのか」を聞き取って、それを本人になり代わって言ってあげるというものである。

なぜって。だって、ふつう誰だって「自分が聞きたいこと」しか聞かないでしょう。聞いてくれないことをしゃべっても時間と労力の無駄である。どうせなら聞いてニコニコしてもらう方がおたがい気持ちがいい。他人の意見を自分の意見みたいにして語るのはけっこう楽しいし。『街場の大学論 ウチダ式教育再生 (角川文庫)』 内田 樹 P.91

そうだよね。この感覚を失っていました。一昨年から昨年の僕はこの感覚をちょっぴり持ってしゃべっていた。相手によって声色を変え、立場を変え、意見を変え、価値観を変える…..そんな姿勢の「忙しさ」があった。でも今年はそうできなかった。否、しなかった。いつの間にか自分を守っていた。固着。”私”に居着いてしまった。

なぜ居着いたか。簡単。他人の評価を気にした。他人の視線を意識した。何より陶酔した。他者から仕入れた知識をあたかも自分で考えたようにしゃべる自分、立て板に水のように話す自分がいた。その姿に僕自身が陶酔して、私は賢いと錯覚できたからその戦術を選択した。本を読み、ブログを読み、講演を聴き、iTunes U を聴き、セミナーを聴く。それらから仕入れたネタを流す。

そういう平板な口調は、言葉が「身体のフィルターを通過していない」ということあらわにしてしまう。言葉は身体というフィルターを通過すると、深みと陰影と立体感を帯びる。

それは身体が言葉に抵抗するからだ。頭の中で「次のせりふ」を決めていたのに、口がうまく動かない、ということはしばしばある。それはそれがどこか「嘘くさい」と自分が思っている場合もあるし、そのフレーズに含まれる言葉のどれかに軽い「トラウマ」がある場合もあるし、単純に口腔の構造がその物理的音声を発生しにくいという場合もある。P.63

今年、身体のフィルターを通過していない言葉をしゃべりつづけた結果、「メディア・リテラシー」が著しく低下した。実感できるほど。過去のエントリーを読めば読むほど低下したと実感できる。昔の方がおもしろい。

メディア・リテラシーとは日本語で言えば「情報評価能力」ということだと思います(たぶん。私の理解ではそうです)。[…..]でも、私はそれはちょっと違うんじゃないかと思うんです。たいせつなメディア・リテラシーは「外から入ってくる情報」に対する適切な評価ができるかどうかじゃなくて、むしろ「自分がいま発信しつつある情報」に対して適切な評価が下せるかどうかではないでしょうか? 自分が伝えつつある情報の信頼性について、重要性について、適所性について、きちんと評価が下せるかどうか。自分が伝える情報は真実か。それは伝えるだけの価値のあることか。それはいつどのような文脈の中で差し出されることで聴き手とっても有用なものになるか。そういう問いをつねに自分自身に差し向けられること、それが情報評価能力ということではないかと私には思われます。 P.84-85

悲嘆していない。毎年、右肩上がりで成長しているほうが怖い。そもそも自分自身が「成長」を実感しなくてよいと僕は思っている。他者が評価すべき項目であり、評価の項目におびえてはダメだ。成長という概念そのものを取り払うこと。表側に「成長」と記されたコインの裏は「限界」と記されている。

そのコインを捨てよう。どの方角であろうとも一歩前へ足を踏み出せば、自分にとっての前進なんだから。