情見

2011.06.20 雨のち曇

またWolfgang’s Vaultを聴いている。マイルス・デイビス、ビル・エヴァンス、ボブ・マーリィ、ジミークリフ、アレサ・フランクリン、ジャニス・ジョップリンなどのライブ音源を試聴できるサイト。専らジャニス・ジョプリンとビル・エヴァンス、たまにジミ・ヘンドリックスをリピート再生。

異能が奏でる音や歌声を聴いて思う。ひょっとして神はいるんじゃないって((よくわかっていない)不可知論者です)。

まぁ、毎日、紫陽花を見ていても神はいるんじゃないって思うわけですが。ええ加減です。精緻なプログラム。自分の頭より大きい紫陽花の茎は大丈夫か心配だ。ぼくの頭は大きい部類に入るのにさらに大きいとは。来年も大人の頭大を開花させるの? 昨年はどうだった? 毎年大きさも色も違う紫陽花ってあるのかしらとか。徒然。

毎日見ているのに成長を認識してない。昨日まで蕾だったのに今日いきなり開花したようにみてしまう。そんな程度でしかみていない。でも、この感覚をなるべく覚えておきたい。広告が似てるから。広告のどのポイントに目がいき、何を認知して記憶に残るか。いまは検索があるから「しつこく」なくてよいしね。GoogleかYahooへ入力してもらえたらOK。

終日、C社のサイト制作。実務手順の図にかなり悩みました。どうやって見せるか。図の内容とテキストが一致していないなんてもってほか。図とテキストの一致を前提にして一体感を演出するために四苦八苦。配色やフォント、配置、記号、タームの統一などなど。目線を意識的に移動させてたらダメ。

たとえば名刺のロゴの色とサイトのロゴの色とスーツの社章の色と封筒の社名の色…..がすべて別々だったら気味悪い。冗談とかと思いきや、まわりを見渡せば結構あります。『誰のためのデザイン?―認知科学者のデザイン原論 (新曜社認知科学選書)』 ドナルド・A. ノーマン, D.A. ノーマン のドアのアフォーダンス(P.15)や行為の七段階理論(P.78)などは目から鱗。一体感と統一感と微妙なズレ。ぼくはこの三つの要素を組み合わせてサイトを制作していますよ、と言えたらよいのになあっと。

正法眼蔵随聞記 十 祖席に禅話を覚り得る故実

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.109

指導者の言葉にしがたって順々にものごとを考えよと。勝手に解釈するな。指導者が「仏はひきがえる」といったら「自分の知識」を捨てて、ひきがえると仏であると信じるのだとおっしゃられても…..。

さあコマッタ。ドグマという単語を思いついた。辞書を引く。1. 教義、教条 2. 独断、独善的な意見と広辞苑に書いてある。これもコインの表裏と解釈してしまいそうだ。表は教義、裏は独断。投げ上げてくるくる回るコイン。表裏を見分けられるでしょうか。

十を読んで、そないむちゃくちゃなと思う自分は底が浅すぎるのでしょう。でもそないむちゃくちゃなとつっこみながら何度も読んだ。

読んで読んで読み返し、十はレトリックかもしれないとも思う。言いたいことは別の場所にある。すなおじゃない読み方しますよ。

「然ルに近代の学者、自らが情見を執して、己見にたがふ時は、仏とはとこそ有るべけれ、また我が存ずるやうにたがへば、さは有ルまじなんどと言ツ」てウロウロ迷う。なるほど。

すなおであれば迷うまい。そうぼくは受け止めた。たしかにそうだ。右に矢印が書いてあり右に曲がり左に書いてあれば左に曲がる。迷わない。

なるほどゴールがあるから迷うかも。自らゴールを定めてゴールまでの道のりを自分で決める。道のりは最適であると信じている。そこから「迷い」が生じるのかもしれない。そんなふうにも感じる。

そもそもゴールはない。ゴールは自分で定められない。どこへ連れて行かれるかわからないけれど右へ曲がれ、左へ曲がれと教えられたらそれに従う。矢印の意味を自分なりに解釈してはならんっていうわけかな、わからん。

だけど、「自分の道」はいつどこで開くのか。右に曲がれと書いてあるのを無視するのじゃない。右に曲がれと書くんだ。書くのはいつだろう。