根器

2011.06.21 うす曇時々晴れ

蒸し暑い。こうでなくっちゃと思う反面、べっとり感がやっかい。そういえば家を出たとたん感じるあのべっとりした感覚はどこから発生してるの? 皮膚? 露出部分は顔と首と手。ぼくの場合は頭もか。まさか顔と手だけで感知してる? 全身でなら服を着てるしなあ。ああ、でもぶあつい服を着て作業したら蒸し暑いし、剣道の面をかぶったらむうむうする。ふむ、むう。

C社のサイト制作とO先生の広告作成。先日、極端に短い納期で制作した広告がダメだといわれたとの由。先生は広告会社へだめもとで提出した。先生とぼくはやっぱりね感が充満。そらそうですよね、公共の場所ですから。医療法の広告規制が厳しい。それにまあマニアックな文面ですし。やり直し。

C社のサイトはあと少し。こちらはニッチな分野でニーズが限定される。アクセス数をのばすサイトづくりより訪問してきたユーザにじっくり読んでもらいたい。アクション数 / アクセス数の%を高めるサイトをつくらなければ。

気がつけば周りのルールやシステムが変わっている。

気がつけばです。たいていは気づかない。気づかなければ変化する必要はない。周りからとやかく言われる筋合いはない、これが私たちのやりかたですってローカルルールを堂々と主張でき、かつ通用しているなら充分だ。気づかないことってこわくてすてきだ。

ひるがえってあとから気づいてしまうと困るわ。ぼくのまわりでは変わった。10代のインターネットに対するスタイル。30代後半以上のスタイルと異なる。もちろんすべての30代後半以上とくくらない。新しい技術やデバイスを積極的に取り入れて新しいサービスに参加している人は一定数いる。

新しい技術やサービスはぼくをワクワクさせる。そのかわりキャッチアップがたいへんだし使いこなせない。それにあれもこれもとなってしまう。39歳になると「時間」が10代の方々と違う。飛び込んでから吟味するより先に躊躇しています。頭がかたくなって「新しい」ものへの抵抗感が知らず知らず植え付けられている。

アメリカではモバイルアプリの利用時間がウェブの閲覧時間を超えたと発表された(最新リポート)。独自調査だからデータや測定方法の信頼性を検証しなければならない。それでもリポートに掲載された動向はあらわれはじめた。実感。ユーザはモバイルアプリを81分使い、それに対するウェブの閲覧時間は74分だ。モバイルアプリの内訳はゲーム(47%)とソーシャルネットワーク(32%)がほぼ占めている。あとの21%はニュースやエンタメ系。

mixiやGREEへのアクセスはモバイルからだし、twitterもそう。RSSもiPhoneかiPadで読む。

ZOZOTOWNのサイトへ携帯からアクセスして洋服やアイテムを買うって言いながら目の前で見せられた。ぼくがびっくりしたら彼女たちはキョトン。そのスタイルが彼女たちにとっての標準。携帯がライフスタイルの起点であり、道具としてきちんと使いこなしている。

鵜呑みしない。そう承知してる。対して確実にゆっくりと変わってきているとも理解してる。ルールとシステムが変わってきた。ラップトップやデスクトップの前に座ってネットサーフィンするスタイルはまだメジャだろうけどいずれマイナへ転じるかもってね。

正法眼蔵随聞記 十一 人は世間の人も衆事を兼ね学して

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.112

きっついなあ。「一事を専ラにせんすら本性味劣の根器、今生に窮め難し」ってお言葉。脳科学のブームが終息?!しても脳ほにゃらにゃは魅力的。自己啓発の本は蠱惑的。そんな現代の風潮に対して「生まれつきおろかなものが一生のうちに究めるなんて難しいぞ」って言われたらへこむなあ。まあ、それは見せかけでしょうと読んでますが。

命あっての物種といいます。極寒極暑昼夜つづけて座禅をやり、身体をこわす。病気になりそうだといって座禅から離れる。それがふつうの僧のふるまい。

ところがふつうじゃない僧は座禅で死ぬなら本望と思って続ける。そしてこう考える。ましてや宋国で死ねたらすぐれた指導者とそのお弟子さんたちに葬ってもらえる。こんな面々による仏道修行者の儀式にのっとった儀式はそうめったにないと。

ひとつを窮めず長々と生きてもかいがない。身体をいたわり病気にならずに気をつけて何もしないでふと後悔するなんてまっぴら。とんがってる。案外、禅師はエキセントリックかもしれない。

命あっての物種はどんな文脈から使われるようになったのかね。ちまたの身体によいへ駆り立てる欲求は何からわき起こるのでしょうか。

長寿? 病気への恐れ?