善事

2011.07.01 晴れ

とけた。スライムだ。ぽよどろ。私の部屋はいったい何度でしょう。

このうえ文部科学省が小学校へ配布している「せつでんしましょう」シートを目にでもしたら体感温度は50℃ぐらいになるんじゃないだろうか。子供を授かっていないのであいにくお目にかかれない。合成の誤謬といってよいでしょうか。

午前中、なんどやってもうまくいかないF先生のDB制作の調査。鬼門だ。仕事というのはそういうものです。苦難がありそのなかに好機が潜んでいる。たいていは受難に惑わされて好機を見逃している、いまも見逃しているなあ。DB制作の苦難に潜む好機を気づいていない自分が悲しい。

FacebookのUIはわからない。まあUIに慣れても悲劇は終幕しない。コンテンツを持っていないから盛り上げようがない。散るぞかなしき。SNSやブログ、Twitterをやると自覚。コンテンツを持たぬ自分。ああ、ひとりSM。

16:00まえに出発。大阪駅で途中下車。先日、発表されたTime Capsuleの2TBを下見。第4世代のTime Capsule。自宅のMacBook Pro Late 2006 15inch, MacBook Late 2006, (さらにこの翌日に購入したMacBook Pro early 2011 17inch)のバックアップをTime Capsuleに集約する予定。もうね、配線lessな環境にしたい。

下見を終えて本屋で “科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)” 森博嗣 を購入。スタバで読み始める。科学的に読もうと試みるもすぐにくだかれ、鵜呑みに読書に。そうなんだ。数値と情報は公開されている。だけどソースへアクセスして自分で理解しようとしない。「言葉」で「物語」をつくって「一目瞭然」で「わかりやすく」してくれたことを「信じる」。

いま官庁と報道機関のPCの日本語入力システムをみてみたい。それらの日本語入力システムの辞書には「健康」と入力したら、「ただちに健康に問題はない」と表示されるように単語登録してあるんじゃないかしら。「ただちに健康に問題はない」はテンプレートになっちゃったよね。その文言を目にすれば情報を隠蔽するなって目くじらをたてる。ならば数値で説明しようとしたらわかりにくいと憤る。

言葉だけで理解している気にならず、思い込みを極力避ける。そのためには、いつも疑いつづけること。情報を広く求め、吟味したうえでも、きっぱりと割り切るような結論を出さない。そして、常に疑問を持つこと。

“科学的とはどういう意味か (幻冬舎新書)” 森博嗣 P.144

経営にあてはまられる。そう書けば、「割り切るような結論を出せないなんて致命的」って反対されると思う。「割り切るような結論を出すため」に定量と定性を充分に吟味しているなら反対意見に同意できる。でも、「直観」が一人歩きしていないかな。「直観」がよいイメージで使われて、直観で「割り切るような結論を出し」ていないだろうか。

測定には人員も設備も時間もかかる(同P.157)。経営を測定しようとすれば道具と人員と時間が必要だ。それから「方法」と。第三者に測定と分析をまかせて要約された解説を聞き、「言葉」だけで理解している気になっていたら危険だと思う。組織が必要とする数字と第三者が要約した数字はしばしば一致しない。組織はどの数字を必要か。何を測定しなければならないか。それらをメンバが吟味して、「方法」を熟慮して、必要な人員を配分しているだろうか。

19:00からM先生のミーティングに出席。テーマは報告・連絡・相談。言い出しっぺのぼくがファシリテーター。へたなファシリでびっくり。久しぶりというのもあるとはいえ、ひどいだろ自分って自分つっこみ。この自分は大阪人が相手に向かって言う「自分なあ」の自分ではありません。それにしてもファシリをやるとなんで大風な態度をとっちゃうんだろう。カッコワルイしキライだな、ああいう態度は。ファシリしながら「オレ、たくさん知ってるよをひけらかしたいんやな」って自分を眺めていました。なのにそれを制御できないわけで。ということは認知と制御の「間」に問題点があるのでしょうか?

今日は正法眼蔵随聞記なし。