自覚知覚無自覚

2013.03.20 曇のち雨

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=0yBnIUX0QAE]

今朝は Toploader – Dancing in The Moonlight でスタート。この曲、オリジナルを含めてカバは全部好き。どのカバーだったか忘れたけど、高校生のとき、手をつないで踊った。ぎこちなくて、はずかしくて、でも、その時見えた月夜の景色が美しかったはずで、なんだかわくわくして。

第十候、雀始巣。新玉葱を買いサラダで。辛みが弱くシャキシャキ。口中が奏でる音を耳の中にインポート、顎の感覚を噛みしめる。彼岸の入り、日の出と日の入りの出番の長さが入れかわり、三寒四温と別れを告げるくらいに春の長雨と挨拶するのかなって思ったりしながらさえずる。

午前中、’ment’ について徒然。今度、スタッフひとりひとりに個人面談の結果を伝える。過去10年のなかでもっとも厳しい内容を各自に伝える、と前回のミーティングで伝達した。そのまま伝えたが、語の定義が異なっている。厳しい、というのは、状態ではなく、内容である。

そのときが来て差し向かえに座ったとき、言い方はやわらかいく笑顔だろう。でも、内容は激烈だと想像する。

「自覚」である。

自分の「状態」を自覚する行為はとても辛い。他の人が自覚についてどう思っているか知らないが、僕は辛い。ネガティブなほうを認めたくない。そもネガティブではなく、あくまで結果の差異でしかない。だけど、差異は、長所や短所、良い悪いで判定してしまいがちで、その判定に従えば、短所や悪いのイメージから顔をそむける。

そのイメージって、世間がなんとなく抱いている偶像でしかない。

琵琶湖 湖畔

伝える私も自覚しなければならない。客観はない。面談の内容を冷静に吟味したところで、いくつもの仮説を構築したところで、それらは私の「視点」から発生した発想にすぎない。

発想がもたらした「差異」を伝えるとき、よほど強く自覚していないと、「私と違うからおかしい」というニュアンスが言外に含まれてモノを言う。

よほどの強い自覚である。言葉で書けば虚しくなる短い一言。

たとえ虚しいくらい短い一言を自覚してもニュアンスは含まれている。ならば自覚は? となる。宵越しの銭を持たないと言いながら金のことばかり気にしているようなものだ。

午前中、”ment” と 自覚について思い回す。言葉が足りなければ辞書を引き、言葉を探し、意味を考え、頭のなかで形を整えていく。日ごろ体験している出来事から ‘ment’ を抜き出し、それを言葉にして頭のなかで自問自答する。

自覚。たったひとつの単語だけで、果てを自ら設定しなければいつまでも堂々巡りする。