知に働けば蔵が建つ

ある事象に対し、「他責的な解決手段を模索する自分」と「自責的に回避する能力を育成する自分」とでは千里の径庭があるのではないだろうか。

知に働けば蔵が建つ『一年の計は元旦にあり』を念頭に、身体は泥酔、頭は素面で2006年初エントリーを思案したところ、やっぱり内田達樹先生に登場していただこうかと。積ん読棚にひしめき合っている先生の著書が「まだ読めないのかよ」と、己の背中に罵声を浴びせているのを尻目にこのエントリーを書いてみる(笑)

教養は情報ではない。教養とはかたちのある情報単位の集積のことではなく、カテゴリーもクラスも重要度もまったく異にする情報単位のあいだの関係性を発見する力である。雑学は「すでに知っている」ことを取り出すことしかできない。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである。『知に働けば蔵が建つ』

表紙の裏側からこのコンテクストがいきなり目に飛び込んできた。教養とは「まだ知らないこと」へフライングする能力のことである、これだけで背筋がゾクゾクして、脳みそがむずがゆくなってくる。

本書も過去の作品同様、ブログに掲載された”無料のテクスト”を「コンピレーション」し、そこに「エディット」という付加価値をつけて”有料で頒布”したものである。そのうち”ウチダスタイル”とでもネーミングされるかも!?

よって先生のブログを毎日読んでいる愚生にとって再読であるが、改めて担当編集者の意図的な「エディット」に随って読むと、

「なるほど、自分の思考の編集に対する外注代なら安いものだ」

と感じた。

というのも、トピックスが南船北馬するような先生のテクストを、5つのテーマにカテゴライズしてくれてあり、なおかつ、本書の理想的な「想定読者」は二十代から三十代の働く人々(どうも担当編集者がその年代かも?)とあとがきにある。まさに想定読者ジャスストミートの愚生からすると、本来自分で編集しないといけない頭の中の作業を代わりにやってくれたわけだから、これほどありがたいことはない。しかも、1,524円(税抜)の破格値である。

5つのテーマは次のとおり。

  1. 弱者が負け続ける「リスク社会」
  2. 記号の罠
  3. 武術的思考
  4. 問いの立て方変える
  5. 交換の作法

担当編集者の深謀遠慮をかみ分けられていないにもかかわらず、厚顔無恥な愚見を晒すと、

「ゆらいでもええやん」

が読了の率直な感想だ。

昨年は、”勝ち組・負け組””モテ系・非モテ系””○○賛成・反対”など、とてもわかりやすい対立軸的発想がもてはやされた。

しかし、そんな「二元論的思考」は短見であり、それに与するのは早計ではないかと頂門一針な“「おじさん」的思考”が本書で散見される。

すっとこどっこいのワタシには、二項対立がわかりやすいし、ワイドショーをながめながら悦に浸って溜飲を下げられる。”軸のどちらか”に自身をゆだねると、「ああ、自分の考えは世間知だ」という醜悪な安心感を覚える。

しかし、醜悪な安心感は、同時に「問いを立てること」を放棄させる。さらにその放棄が、「無知の知」に盲目とさせる。「自分が何を知らないのかを知っている状態」に己を導いてくれないのである。そう察すると自戒できる。「問い」を立てないかぎり、「まだ知らないこと」へフライングする能力が養われるはずがないと。

さきに「ゆらいでもええやん」と一言集約したのは、「YESかNO」にゆらぐのではなく、「YESかNOしかないのか」に毎日ゆらぎつづけること、すなわち、「自分と常に対話する」ことではないかと愚考するのである。

自分との対話とは、「自分と他者の空間」をデザインしなければできない”作業”だと思う。

ある事象に対し、「他責的な解決手段を模索する自分」と「自責的に回避する能力を育成する自分」とでは千里の径庭があると想像する。仮に二項対立のうち、一方の言説を採択できたとすると、その採択を判断した自分は、すでに「他責的な解決手段を模索する自分」であるかもしれない。

『「自責的に回避する能力を育成する」するには自分はどのような修養を積むべきか?』

愚生のこの問いに対して、「フライングするタイミング」を本書から教わった。さすがに「スタートライン」までは甘えられない(笑)

以下、本書P.118-119より引用