diary

書きたいと思いつつ書けない日々

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2013.01.31 晴れ

今朝は サカナクション – ミュージック でスタート。いままであんまり気にならなかったけど、FM 80.2 がこれでもかってプッシュしてきて、聴いているうちに、04:00すぎの疾走感がたまらなくなってきた。駆け出したい、叫びたい、踊りたい、ハグしたい、感情の爆発、的な。

第七十二候、鶏始乳。「七十二候」のまつわるカレンダーや書籍が出版されている。どうも見直されつつあるらしく、七十二候に寄り添った暮らしを営みたいとの由。それらのニーズに応えているのであろう。“日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―” 白井 明大“旧暦で楽しむ日本の四季 二十四節気と七十二候 (別冊宝島 1936 スタディー)” 宝島社 とか。僕は “くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記” 平凡社 を好んでいる。

いつごろからか覚えていないけれど、ここでもふとしたときに七十二候を書いている。やりだしてから関心を寄せるものがかわってきた。うつろいやかわりめが気になり、味わう方を知りたくなり、知って実感できれば私のからだが喜ぶプロセスが楽しくなってきた。

言葉は不思議なもので、「言葉で考える」と言っていた昔の自分を懐かしいし、いまでも「言葉で考える」は那辺にあるかわからないけれど、あのころよりは疑っている自分を認識している。

それも「ことば」を学習するようになり、少しずつ体系立てて調べる要領を覚えたからかもしれない。かといって、知識が深まれば、これもかつてのように、誰かが異論を唱えても、「それは違う」的な論は交わらせない。

会話の妙は、「伝わらないこと」にあると思う。それをお互い認識している人が、それぞれの系のなかで自他の欲望を交わらせて自己を変容させていけばよい。その程度の健全でささやかな行為は許される境界線を所有しておきたい。

年を重ねるにつれ説教じみた物言いになる。知らず知らず言外に説教がインストールされている。おそらくそうなっていることを認識できない。よかれと思って話すか、己の頭の良さや造詣の深さを誇示したいからか、あるいはまことに相手を労って老婆心ながら申し上げているか、いずれにせよ、いくつもの「そうかもしれない」リストを自分なりに思いついた順番でピックアップしてみるが、どれもあてはまるようでしっくりこず、それでも加齢からでる臭いと似た言葉を発している。たぶん発している。豊穣な発酵物ではなくたんに腐っている物を排泄している。

「ひとはことばでコミュニケーションできない」は意外な話ではない。ことばに比重を置けば、できる、となるけれど、比重を空間や体感や瞬間の反応とか、五感を拡張させていくと、意外な話でない種を見つけられる(ような気がする)。

メタセコイヤ

野菜の価格がいくぶん落ち着いてきた。冬野菜を味わった記憶はなく、春野菜の陳列を見て、ただがむしゃらにばくばく食べていたなって、焦る、おたおたする。

菜の花の苦味が苦手であったのにいつのまにか食べられるようになった。大人になったのか、味覚が鈍化したか、あるいは近ごろの菜の花も他と同じく品種が改良され苦味を抑制してあるか、どれが正解なんだかわからない。

正解はない。ただそのときの自分の味覚をきちんと評価できるようにしておきたい。

1/12も終わり。

価値を生み出さず、ずっと何かを調べていたみたい。危険な兆候。

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