2013.02.01 曇のち小雨
[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=hByFQMJww8M]
今朝は moto – 桜の声 でスタート。ショートバージョンなのでザンネン。ラジオで知った。季節ソングはなるべくスルーしたいんだけど、ストレートな歌い方にハートが反応した。のびやかに力強くまっすぐ歌う人が好きだな、やっぱり。もちろんシャウト系も好きで、とにかくあんまりいじらないでって素人のわがままを伝えてみる。
結局、サカナクションのミュージックを iTunes からダウンロードしてしまった。ま、まけた。YouTubeだけでは満足できず。で、iPod touch にインしてから、大阪の往復、これだけ聴いた。リピート再生のみ。バカな聴き方。
この間の大阪の往復はといえば、くるりの Remember me と Jeff Buckley の Hallelujah を交互にリピートした。あやうく列車のなかで涙腺が崩壊しそうになって、堰き止め工事を完工しなければならず、なかなかたいへんな突貫工事であった。
instagram で、ちょっとした一言を添えてアップしている。少ないフォロワーさんのなかに、目を通してくださる方がいらっしゃるらしい。たまにコメントしてくださる。
僕が抱えている気持ちを添えた一言を、フォロワーさんは、僕の意図や感情とは異なって受けとめていらっしゃるようだ。あたりまえなのに、刺激的だ。たった一言ですら、異なって受けとめられる。新鮮な感受が立ち現れる。
ひょっとしたら一言だからこそ、それぞれの受け止め方、感じ方があるかもしれない。
外国の詩を読むようになって、ひとつひとつの単語は難しくないはずで、なのにそれらひとつひとつが紡がれて生まれた一編の詩は、壮大で視野の広い世界が描かれていて、どの部分を切り取ればよいのかしらと困惑し、あまりの難解さに楽しめなくなってなんのために読んでいるのかすらわからなくなる、のに、また手にとって迷宮の扉を開いて彷徨う。
13:00まえに出発。大阪へ。F先生と打ち合わせ。
これほどに学びの機会が多様であるのは、「自分が何を学んだか」についての決定権が最終的には個人に属しているからである。同じ教師に同じ教科を同じ教室で学んでも、それによって震えるような感動を覚える生徒もいるし、何も感じない生徒もいる。そのときは何も感じなかったが、何年も経ってから電撃的にそのときの教師の言葉の意味がわかるということがある。人間はそのつどの成長レベルに従って、自分の経験の全体を「私をこのようなものにならしめた要素の必然的な連続」として再編集する。必ずそうする。過去の出来事の意味は現在の自分の状態に基づいて、そのつど改訂されるのである。だから、過去の出来事が意味の改訂を拒絶するというのは人間が成長を止めたということと同義である(それゆえ、意味の改訂を拒絶する出来事の記憶のことをフロイトは「トラウマ」と呼んで治療の対象としたのである)。
僕は他人に対して冷淡だ。学びについて、その人の好きなようにすればよいと思っている。学ばなければならない、と要求しない。その姿勢は自分にも貫いている。学びに対して意固地である。自分で好き勝手に経験を「再編集」している。他人に接する自分をふと感じたとき、ぞっとする薄暗い闇を持っている。致命的なんじゃないかって不安を抱く。
学びについて他人へ侮蔑の感情を起動させないことを徹底する。強く意識する。自分に強く戒めている。礼節のひとつだと僕は解釈している。
大学の4年間、ぱっとしなかった人が卒業してから知的ブレイクスルーがはじまる。あるだろう。「やがて知的なブレークスルーを担うようになる破格にイノヴェーティヴな子ども(千人に一人くらいの確率でいる)」もいる、と想像する。
他者からみれば大学の4年間は長く、なぜその人はずっとぱっとしないままなのか、と他者の目に映る。でも、本人にはその4年間は本人だけの4年間であり、卒業してから「4年間」の意味と経験を再編集して、知が爆発する。
他者は私に対して寛容であり時間軸を長く設定している。そう理解できるし、反対もある。他者は私に不寛容であり、時間軸を短く設定している。私も同じ構造を持っている。
買い物かごみたいだ。他人の買い物かごを見てごはんを推測する。野菜がひとつも入っていないかごを見て、「野菜をあんまり食べないのかな」って思う。極端な思い方である、と呵々大笑するが、そういう「極端な思い方」が至る処に転がっている。「それ」以外の行為を思い描ける力が想像であり、人間に与えられた特権であるにもかかわらず、僕はその特権を上手に使っていない。
世界は目の前に見えていないことで構成されている。