マネジメントに限定すると、議論に必要なのは、"Who said"より"What’s said"ではないか。議論は、("What’s said"から)合目的的を選択/合意形成する手順だと愚考する。
jkondoの日記: 「正しい」って何だろう
人と議論をしているとよく「何が正しいのか」という事が問題になります。「その意見は正しいね」とか「君の言っていることは間違っている」みたいな話です。議論というのは基本的に最も「正しいらしい」と思われる結論を導き、それに全員が同意することを目的にするものだと思っているのですが、議論をしているとたまにこの「正しさ」についての認識が違うな、と感じることがあります。
はてなを経営する日々のなか、スタッフとの議論やユーザーの意見から感じとられたのだろうか。「個人」と「全体」の2種類の正しさという説明に納得。
なぜ、「個人」と「全体」の正しさを混同するのか?
その理由のひとつに、「事実」と「意見」の峻別を心がけているかどうかがあると思う。はたして主張は「事実」か「意見」なのか?意見ならば、相違があるのは当然だ。その場合、まずは「事実」をとりあげ、互いの認識が一致しているかどうか検討してみる余地がのこる。
主張のなかには、「意見」を「事実」と誤認してしまっているときがある。当の本人も気づいていない。経営関連の書籍を読み、著名人の文献に目を通すうち、いつのまにかそれらの意見が「正しい」と思いこむ。すると、「会社は○○べきだ、社長は○○べきだ、上司は○○しなければならない」といったテンプレート的フレーズが放出される。思考停止しているかもしれないのに、(思考停止している)自分を疑わない。
「事実」と「意見」の峻別のほかに、注意を喚起したいのは、「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」だ。誰が言ったかに執着すると、バイアスがかかってしまう。主張している人の「属性」が、無用な"枠"をつくる。
いま書きながら、頓狂な声をだした。根回しは"Who said"が、合意形成は"What’s said"が、比重を占めてないだろうか?
いやいや、早計か。最後は、「意見」でも「事実」でもない「思いつき」。
取締役就任が決まった翌日、私は近藤からはてな社内ブループウェアのアカウントをもらった。アクセスして、まず驚き、そしてしばらくして、その新しさに惹かれた。組織内で起こっている何から何までが社員全員に公開され、本来ならば組織内のごく一部の人だけが読むべき、普通なら電子メールでやり取りされる内容も、すべて全員が読めるようになっていたからである。
おそるおそる私についての記述を検索してみたら、ぞろぞろと出てくるではないか。[…..]良いことばかりではなく、まさにありのままが議論され、淡々と社内でその情報が共有されている。当事者である私が読むことを意識して、過去に記載された情報を隠蔽しようというような発想はまったくない。『「へんな会社」のつくり方』 P.179 近藤淳也のハイリスクで魅力的な二面性 梅田望夫