冷静な議論の土壌に腐った液体

立花隆氏のメディアソシオ-ポリティクスシリーズはネット界隈でときおり物議を醸し出す。靖国参拝をとりあげた第78回もご多分にもれない(参照)。これを読むと、ゴーストライターが書いていて立花隆氏は名義を貸しいるだけかと見紛うほど体をなしていない。「時間がもう1カ月もない。さあ、どうする小泉!」で締めくくっているあたり、三文小説でも読んでいたのかと錯覚した。前半、テレビに映った小泉首相の表情をとりあげる。主観を超越して自己崇拝しているかのような描写を軽く流せたとしよう。自身の直感を例証するために、「田中角栄」に拘泥するのもよい。しかし、前半の終わりに私には看過できない文言がおりこまれている。

あのときの田中と、今回の小泉首相では、置かれているシチュエーションもちがえば、2人の性格もちがう。安易に両者をひきくらべることは意味がないが、あの表情から私は、小泉首相は、あの天皇の言葉に大きすぎるほど大きな衝撃を受けたのだと瞬間的に思ったのである。[…]要するに、私が2人の表情のどこに共通点を見出していたのかというと、内心では敗北感の極致を味わっていながら、政治家という立場上、そのようなことはオクビにも出せないという苦しみだと思う。

意味はないとしながら共通点を見出すのをダブルスタンダードという。それとて私にもよくある過ちだと胸にささる。問題は「敗北感の極致」である。何に敗北したというのだろう。後半につなげる文章と連関させてみる。

さて、昭和天皇の明々白々なA級戦犯合祀に対する不快感表明によって、一言でいうなら、靖国問題は、決着がついたといっていいと思う。

靖国問題に決着がついたと思う根拠は、昭和天皇の「意思」だとしている。ということは、立花隆氏が言う「敗北」とは靖国神社参拝反対そのものではなく、「心」のなかの「参拝しない(=勝った)、参拝する(=負けた)」を示唆しているのだろうか。もしそうだとするなら寒気をとおりこして恐怖の極致に到達する。「思想信条の自由」を勝敗で決着させようとしている。もちろん政治問題として靖国参拝をとりあげているから、政治問題として「勝敗」をつけているのだろう。

ここで私の疑問を述べる。立憲君主制の日本にとって、まるで憲法で制限されていないかのような天皇陛下は諸外国と比較できない奇異な象徴だと私は思っている。そんなへんてこりんな皇室制度を私は是としている。その代替として「公私」があるとしない。もちろん蒙昧であるために何ら知識をもちあわせていない。ただそんな程度にしか考えられない。もっと勉強すれば変わるのだろう。いまのところ「公私」を区分する前提にいまいち釈然としない。

天皇絶対主義の時代はとうに終わったとはいえ、天皇発言の持つ影響力はいまだに日本の社会においてきわめて大なるものがある。

だからこんな言説を目にすると意味がまったくわからない。影響力もなにも「公私」がない(と思う)存在が何を「信条」にしようが自由である。自由というよりも関与しようがない。かりにずっと譲歩して公でない意思だとしても、それがどうしたというのだ。それに従うもしくは、その発言を吟味せず脊髄反射的に首を縦にふるように教育されてきた記憶は私にはない。

戦後、天皇が意識して影響力を行使したことはない。天皇にはもちろん天皇個人の意思があるだろうが、天皇はそれを傍目から全く見えないように見事に隠してきた。しかしそれだけに、今回のように、個人的意思がたまたま外にもれ出してしまうときには、その意思がより一層の影響力を持ってしまうものである。天皇の意思と一般社会の意思がぜんぜん正反対に食いちがっているというならともかく、そうでなかったら、天皇の意思の方向にことは動いていくだろう。

私は戦後生まれなので戦前を知らないが、日本は「天皇の意思の方向にことは動いていく」ような政体なのだろうか。屁理屈を述べる。正反対に食い違っているならば、「ともかく」と放置し、一致しているならば「是」とする論理はどのような前提(論理の出発点)から導き出されたのかを教えてほしい。氏が指摘するように個人の意思に対して小泉首相は「個人の意思」のレトリックを駆使している。だから「私人」として参拝するのが理であるところ、その「私人」とする範疇が中途半端、徹底的に私人になりきっていないから問題なのだと私は思う。

皇室の「意思」を靖国問題にかぶせる立花隆氏の言動に危険を感じる。それは皇室制度存廃を政治と関連させて議論しようとする風潮だ。存廃を自由闊達に議論するのは必要だと思う。しかしそれは国体の視座から議論してほしいと切にねがう。その時々の政権や政治の思惑といった「短期」の視点で決して議論してほしくない。

朝日新聞社は先日21日付けの社説で「A級戦犯合祀 昭和天皇の重い言葉」と題して昭和天皇の「意思」を利用した(参照)。しかし、今年の2月2日付の社説では「寛仁さま 発言はもう控えては」を書いている(参照)。以下HDDから引っ張り出してきた。

だれを天皇とすべきか。皇位継承は天皇制の根幹にかかわる問題だ。国民の間で大いに論議しなければならない。皇族にも様々な思いはあるだろう。自らにかかわることだけに当然だ。だが、それを外に向かって発言するとなると、どうか。改めて考える必要がある。[…]しかし、今回の一連の寛仁さまの発言は、皇族として守るべき一線を超えているように思う。寛仁さまはインタビューで「皇族は政治にタッチしないという大原則があります」と述べている。その大原則に反するのではないかと考えるからだ。憲法上、天皇は国政にかかわれない。皇位継承資格を持つ皇族も同じだ。寛仁さまは皇位継承については「政治を超えた問題だ」と述べている。歴史や伝統の問題ということだろう。しかし、天皇制をどのようなかたちで続けるかは国の基本にかかわることで、政治とは切り離せない。まして、いまは政府が皇室典範の改正案を出そうとしている時期である。たとえ寛仁さまにその意図がなくても発言が政治的に利用される恐れがある。それだけ皇族の影響力は大きいのだ。天皇は日本国民統合の象徴だ。国民の意見が分かれている問題では、一方にくみする発言は控えた方がいい。これは皇族も同じである。[…]寛仁さまひとりが発言を続ければ、それが皇室の総意と誤解されかねない。そろそろ発言を控えてはいかがだろうか。朝日新聞 平成18年2月2日付社説「寛仁さま 発言はもう控えては」より引用

変節を非難できない。私も都合のよいように"利用"したことがあるからだ。だからこそ自戒してクールに議論したいと思う。クールに議論したい土壌を枯らせるかのごとく腐敗した液体をあびせられた気分だ。嫌みを言う。解散するとかしないとかマッチポンプしているような年長者が身も蓋もないふるまいをしている。その言動がどれだけ影響を与えているのか考えてほしい。それが無知蒙昧の若輩の訴えだ。