『レヴィナスと愛の現象学』や『他者と死者―ラカンによるレヴィナス』には「仕方」という単語が頻出する。鍵語になっていないので、メタファーでないと解釈してしまうが、どうも字義通りでないように推察する。ちなみに広辞苑によると「仕方」の意味は以下のとおり。
し‐かた【仕方】
- (1)なすべき方法。やり方。手段。「運転の―」「―がない」
- (2)ふるまい。しうち。好色一代男(2)「さりとはにくき御―」
- (3)(「仕形」とも書く)てまね。身ぶり。軽口露がはなし「船の―」
広辞苑 第五版 (C)1998,2004 株式会社岩波書店
「なんだ、HOW TOか」と掬い上げると、これらの著書に登場する文脈はみごとに我が手からこぼれ落ちてゆく。まさに愚生がなす愚慮の見本。以下、愚考。
「HOW TO」は「知っている」ことを前提にした手段であって、「知らない」とそれを講じようがない。また「HOW TO」の対象とするところ十把一絡であり、真似ても自分のサイズに合うかどうかわからない。というのも、答えがすでに自明である。ゆえに「答えが合わない」と対象者は"次へ"ゆく。
対して、対象とする人が「知らない」状態であっても、自分の求める叡智が宿っているポイントへアクセスできる「道すじ」が「仕方」ではないかと愚察する。あくまで「アクセスできる道すじ」であって、「アクセスポイント」そのものではない。十人十色の多様化した結論まで誰も導けない(と思う)。
私はよく「気づき方をご存じないのではないですか?」と尋ねる。これは、「コミュニケーションの問題だろ」や「気づいてない」と悲観する相手に対して問いかけるフレーズである。「じゃぁ、そのコミュニケーションの問題の手前、コミュニケーションの仕方をその人は教えられているのか?」を知りたいし、「気づく仕方を体得しているのか(だから気づいてないのではないか)?」を確認したい。
なぜ、こういう愚問を相手に渡すのか?
経験だけで申せば、「人材育成のなかで、この手の屁理屈的話題が意外と俎上に載らない」と受け取ったからだ。「じゃぁ、どうすればいいですか?」はトークされても、「じゃぁ、どうすればいいですかの地点に立つ前、その地点への着地するふるまい」が論じられていないと察する。じゃぁ、なぜ受け取ったのかと自問すれば、企業や医院がくだらぬ話の仕方を育んでいなかったり「気づいてない」からかもしれないと自答する。
というわけで、"単語それ自体"といった「根っこ」をブレインストーミングしていないぁとただ興味を抱いている次第です。