自壊

2010.04.06 晴れ

朝、カーテンを開けてチューリップの蕾が開いたか確認。日課になった。まだかと待ちわびる。皇子山球場の桜は九分咲き、気の早いツツジは顔を出し始めた。『今日は死ぬのにもってこいの日』 [to Amazon] に、「春が冬に始まり、死が誕生によって始まることをわたしがうっかり忘れるたびに」という一節がある。ほんと、うっかり忘れている。うっかりどころか、ずっと気づかない。

O先生のサイト制作。口を開けると歯がある。歯は何で支えられているのか? うう、適切な疑問文を作成できぬ、云わんとするのは、歯が抜ける仕組みかなぁ。ああ、難しい。とにかく、口を開けた時、歯茎を透かして骨の構造をスキャンする人は少ないと思う。試着室で自分の内臓をスキャンしないみたいに。

先日、野洲の西友へ行った。アメリカの映画に登場するようなスーパーの売場みたい。通路が広い。快適。イオンとまったく違う。イオンは、通路に売れない特売品を置いて通行を塞ぐ。わざとか。カートがすれ違えないのでストレス。現場の人はストレスを想像してない。西友の価格は、イオンより10円程度安い。全品ではないけれど、食料品の価格設定は明確な意思を感じる。野菜や生鮮食品の陳列方法も違う。そういえば、平和堂は西友とイオンとも異なる陳列だった。

周りは価格に敏感だ。自分が想定している以上に。館内で「半額」が放送されると、その売場に人がやってくる。まず、半額に反応しているみたい。そして、その半額と商品を見てお得感を吟味している感じ。お得感が演出されていなければ、見ておしまい。

誰かが亡くなると年齢を確認する。自分の行動が不思議。意味のない確認なのに、数字に目をやる。数字が同年代だと感情と理性が急に喧嘩しはじめる。自分より上の数字だと理性が能書きをたれ、下の数字だと感情が暴発。メタな”誰”かは、無意味な葛藤が躰を支配していると観察するでしょう。年齢や病気に右往左往して、現象そのものを吟味しない自分、不思議な気分、納得しない意気、吟味の仕方を獲得しない怒気、そんな諸々の情感と記号が脳内で生成され、映像がジグソーパズル。

駅前で70代ぐらいの老人たちが旅館の送迎バスへ乗り込む。同窓会の文字。情景を目撃した瞬間、質感が記憶の引き出しから言葉を引き出す。「この年になると、同窓会で誰かがいなくなっていく」、アレ、見聞した場所を思い出せない。質感はそこまで親切じゃないのか。ザンネン。何気ない言葉は名言より記憶に残る。老人たちの笑顔がとてもステキだった。

ヒトは顔を認識する。幼児は顔を大きく描く。でも、詳細な部位を思い出せない。無意識はちゃんとインプットしていて、どこかにしまってある、と思う。だから、夢に見知らぬヒトが登場する。あれは、ほんと不思議だ。どこで見たのか、なぜ、その人の声まで再生できるのか。老人たちの笑顔とバスに乗り込む躍動感は壁紙にできるけれど、一人一人の顔はアイコンにできない。

ああ、もどかしい。