2010.09.14 晴れ時々雨のち曇
チューリップの秋植え球根が出始めたのでついつい手にとって、心中、植えるにはまだ早いわな、知らぬ顔でそっと戻す。目で楽しみ季節感を味わえありがたさで満足しておきましょう。でもどうしよう、春先に綺麗なチューリップが咲いたし、あれを見たらもう一度植えたいので球根を処理して保存してあるわけだ。うまく来年も咲いてくれるかな。
秋色の幟と秋刀魚がお目見え、今年は3回いただきました。秋刀魚が好物なんで。今からしばしの間続く幸せ。秋刀魚の食卓なんて贅沢よ。ただどれも脂がぬけている。例年だと焼いてる途中で脂がガマンしきれず放たれて、その脂を見た目は条件反射よろしく涎を垂らすのです。ああ、ゴメンナサイ。今年はそれほどじゃない。秋刀魚も酷暑にマイッタか。漁師さんはタイヘンかと。ウマイ秋刀魚にめぐりあえるとよい冬を迎えらそうな、それもまた幻想であっても秋刀魚は生きる糧。
午前中、M社のページ制作の続き。仕上げてメール。それからWPの制作。午後、1時間ほどGIOSに乗る。琵琶湖の湖畔は涼しい。トンボが飛んでいる。GIOSの進行方向と反対に飛んでくる。この出来事を相対性理論で説明できる頭脳を持っていたらステキなんです、が、自分はGIOSに乗れてもGIOSとトンボを理論的に説明できぬわけでできないことを羨んでもしょうがないのにそう思わずにはいられない頭脳がやっかいです。
専門家の先生方が科学から物語へ変換してくださる。科学・技術分野のアウトリーチが活発(自発的でないかもしれないけれど)になったからなの。あるいは自分が興味を持つようになったからそう受け止めているだけかも。昔からちゃんと変換してくださっていたはず。
ネットやブログ、iTunes Uへアクセスしたり書籍を読む。解説を理解できなくても次元を下げて説明してくださっている点を一所懸命に読む。
(あまり好ましい表現じゃないかもしれないけれど)理系の先生方は科学を物語へ変換してくださる存在。科学の学術用語を日常生活の単語へ変換して「現実」を浮かび上がらせる。
ただその変換された物語を自分は拡張して解釈してしまいかねない。それを充分に気をつけよ、と自戒。ミラーニューロンしかり。
「「利己的でない人」はメンバー全体に求められる「基準」を引き上げてしまい、他の同僚たちを「悪く見える」ようにするため、同僚たちの恨みを買うことになる」という「利他的な人は嫌われる」って社会心理学の研究が報告された記事を読んで、それを「感情」と「情動」にリンクして組織の「感情論」的な話へ拡張させたら、それはもう研究の仮説じゃなく拡張した自分の私見でしょう、ですよね、やっぱり。と自戒してもそれをさも研究で発表された科学的な事実と前提してしまう自分の思考回路はとてもおバカである、疑えよ自分の頭。
世界を切り取る側は自分の都合のよい解釈へ拡張して希望を膨らませる。鮮やかに爽やかに世界を切り取るんだから悪意はないかもしれないけれど、拡張された物語は伝達する人の意図からずいぶん離れてしまって、時はもうそれを元の場所へたぐりよせられないし、いや、その前よ、「拡張する解釈」をコントロールできる術もない。
だから驚きなんです。「伝わりましたよ」と言われた時、涙ができるほど、ありがとう、それは奇蹟だと独りごちて、奇蹟が発生する日常よりも脂がぬけた秋刀魚をいただく食卓が日常でないかもしれないと私を疑う。