背骨

2010.11.02 曇

口内炎がひどい。9月頃から途切れずにできる。消えてはできる。口内炎ができると口臭が発生する。クサイ。かなり。ただ自覚できない。指摘してくれるから自覚できない口臭を感知している。口内炎ができると対人恐怖症になる。常にガムを噛まなければならない気持ちに圧迫され、ガムを噛んでいない自分に気づいたとき、あの人と喋っているときに不快な思いをさせたのではとあとから凹む。

口内炎の上、一週間前から背骨が痛い。今日はついに朝から痛くて仕事ができなかった。座っていられず、立ってもいられず。じっとできないから部屋の中を動き回って、寝転んだり、ストレッチして過ごす。かなり痛い。

最近、仕事の現場で感じること。「私が言いたいこと、と、私が言わなければならないことは異なる。99%は前者だからこそ残りの1%が輝く」と感じてきた。ひょっとして周囲の認識は反対かな。私が言いたいことが1%かも。

僕の認識だと、”私が言いたいこと = 主語は私” – “私が言わなければならないこと = 主語は他者” の図式が成立しています。たいていは前者であって、私が言いたいことを発言して終わる。終わる、と書けば聞こえはよいけれど、終わる、ではなくスッキリする、あるいは満足するに近いかな。云いたいことは言った、満足。

後者は異なる。「私が言いたいことは別にあるんだけど、この空間が必要としていることを言わなければならない。それは一体何だろう。”ほんとうに”言わなければならないことは」という感じで、”ほんとうに”がべったりとついて回る。しかもそのほんとうは私がほんとうに言いたいことのほんとうではなく、空間が求めている「何か」のほんとうは何だろうのほんとうだ。

私が言いたいこと、が表現ならよい。茂木先生が書いていらっしゃるとおり「表現者は言い訳をしてはいけない、ということはさ、つまり、伝えることはディスコミュニケーションと不可分ということなんだよ。」なんだ。同定であるか自信はないけど、僕は表現する時、「100%伝わるわけがない」と絶望して表現する。絶望って言葉をかんたんに書いたらいけないけど、そんな気持ちをきちんと抱いて臨む。ただし自己満足に陥りたくないから自己批評の質を向上しなければならない。自己満足と自己批評を正確に往来したいですね。

でも、仕事の現場は表現より会話や対話であって、どこかでちゃんと折り合いをつけたほうが効率よく進む。結果的にですが。だからディスを取り払ってコミュニケートが優先される。

ただ、自分の認識を訂正しないと。いままで「伝える」という言葉を使ってきた。これは表現に分類されるかもしれないと最近思い始めた。表現に分類されるからディスコミュニケーションと不可分だし強くうなづける。周囲や本屋を観察したら「伝える」という言葉がどうもインフレーション気味だ。学位のインフレーションと同じくひとかどの人が単語を使えば言葉はあっというまにインフレを起こして価値が低下する。芳しくない兆候だと僕は考えているので、インフレーションからさっさと逃げ出す準備を始めている。

「伝える」という単語が表現に分類されるとしたら、辞書的には同じ意味に近い単語を探そう。会話や対話に分類できて使い勝手がよい単語。模索中です。

みんな普通をちゃんと装える。普通という糸をつかって普通を縫っていく。でも装った普通は必ず綻びる。綻び方はそれぞれなんだ。人間の数だけ綻び方がある。そして、その綻び方が「普通」じゃない。だから普通の人はいないんだよ。