解答

2010.12.24 曇時々晴れ

寒い。07:00の気温は7℃とラジオはしゃべっている。06:00はとても寒く感じた。気温が上昇しないから部屋も寒い。ラベンダーとミリオンベルはいまだ花を咲かせている。すごいな。晴れ間が見えたとき、ガジュマルに冬の日差しがあたる。それを眺めるのが好き。なんだかガジュマルがとても気持ちよさそう。”ヒエトリ”をネットで調べて、最近は靴下をはいて寝ている。睡眠の質はあまり変化なし。途中で目覚める回数が減った。朝は起きやすい。

O先生のサイトの最終仕上げ。症例の画像を補整したり誤字・脱字をチェック。いよいよかなぁ。もう少し寝かせよう。ガマン。あせるな。まだ何か残っている、という前提でサイトをスキャンしていこう。

16:00前に大阪へ。大阪駅で下車してすっかりマイ書店になった本屋で 『NOVA 3—書き下ろし日本SFコレクション』 大森 望 を購入。スタバに寄ってから大阪駅近辺のお店でシュトーレンを購入。ドイツの菓子パン。木の実や干し果物が練り込んである。

19:00からM先生のミーティング。20:00終了。新しい外部の方が秋頃から参加されるようになって自分の役割を考えるようになった。今まで自分が演じてこなかった、こなしてこなかった役割に挑戦している。それでも己の根っこは変わらないと思う。それが問題であり頑固だなと思うけど。

『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』 村上 春樹 の帯がとても印象的だ。「回答はあっても、解答はありません」と書いてある。今年、仕事の中で再確認した。痛感した。秋頃に集中的に出席していた別の場でもひしひしと肌で感じた。その場所にいたスタッフの方々はとても嫌な思いをされただろうなぁと反省している。

「何かの物事を決定する場所」に今の自分のやり方を適用させてはいけない、と僕は秋頃の仕事から学んだ。適材適所。9割以上の人へ不快感を与えてまで「回答はあっても解答はありません」を共有しなくてよいんだから

良い悪いではない。「回答はあっても解答はありません」のスタンスで臨んでよい空間と「回答はあるし解答もある」というスタンスで臨む空間を使い分けなければならない。僕にはまだそれができない。どの場にいても「解はない」で対峙してしまう。コンセプトは問題の発見と設定。そのコンセプトで空間に鎮座する。

他方、周囲は「回答」と「解答」を求める。欲する。仕事だけに限定すれば。問題はあらかじめ設定されてある。周囲は問題を解くために実務的な手順を確認する。それが現場だろうとも思う。現場はそうでなければ動かない。動けない。手順を確認しながら不明な点があれば誰かに質問する。どうすればよいですか?

自分で問題を作られるようになれば研究者として一人前 —– というような内容を松井孝典先生がおっしゃっていた。問題を作るには、自分がどこまでわかって、どこまでわかっていないかを自分で見極められるようにならなければならない、と。それが問題設定に必要な前段の文脈だと思う。

しかし、その文脈を知らなくても与えられた問題を解けるし、実務の遂行に障害は発生しない。抽象的で概念的な対話はしなくてよい。聞かなくてもよい。問題を発見する、設定するために必要であってもそのプロセスを避けたいし、そもそもプロセスの要不要を判断できない。プロセスそのものには解答がない。自分がどこまでわかって、どこまでわかっていないかを自分で見極める作業は拷問に等しい。誰かがどこかで問題を作っている。

マジョリティは「回答」と「解答」を求めている。1,890円までのビジネス本やハウツー本はメジャをターゲットにしている。平積みされる。あたりまえの話。もってまわった言い回しで書いた。別段、思索や観察は必要ない。直感的に納得できる。でなければビジネス本やハウツー本のジャンルは成立しない。「わからない」ことに耐えなければならない道理はどこにもない。

この文章が愚痴や批判と解釈されたら僕の筆力が未熟で下手だからだ。もう一度ふれておくと善悪や是非じゃない。マジョリティの傾向を観察した私見を申し上げている。観察の仕方や先入観が含まれた考察であるなら、文章のすべては間違っている。前提が偽で結果は妥当は、論理的に導き出されたとしても感情的な説得力は弱く支持されない。

21:45に帰宅。帰り道、月がとても美しかった。満月じゃない。雲は少ない。夜の雲は鮮やか。夜の雲と美しい月。1分ほど眺めた。部屋の電気をつけたら火の気がないからとても寒かった。昨日作った粕汁を温めてお椀に入れて身体を温めた。部屋は空虚から実態へ変化する。まるで温めるという解答を部屋は求めていたかのように。