裏表

2010.12.29 晴れ

第六十五候、麋角解。さわしかのつのおつる。ヘラジカ、またはオオジカの角。春に生え始めた角が落ちる。日本で見られない動物が季節を表す。連日、目が覚めると部屋は寒い。急いで服を着込む。今日も何をしようか考える。贅沢。

そうだ、『相棒 劇場版2』を観に行こうっと、ネットで調べて、09:15からだと1,300円で観賞できるみたいだし、急いで着替えて08:35すぎに出発、09:00前に到着、チケットを購入。

相棒に出演している俳優は劇団出身が多い、いやいや相棒に限らず劇団出身の俳優さんを好んで観るのであって、そうですね、プロットよりも演技を観たいほうなんで、演技って、演技って、何でしょう、アンソニー・ホプキンスは役作りを否定すればロバート・デ・ニーロやアル・パチーノは作り込むし、なのに、どっちからアプローチしても「演技」には思えなくて、「素」ですよね、って尋ねたくなるほど、「現実」であり、ダスティン・ホフマンやブラッド・ピットはクレイジーな虚構を反転させて現実を表現して、アンジェリーナ・ジョリーはどの役でもアンジー、なのに引き込まれます、なにゆえでしょう、ジョニー・デップは汚らしい容姿から美しい容姿への幅が広すぎ、と驚きます。ああ、演技。演技なの。

最近、過去の記憶を辿って記録している。だんだんわかってきた。認識しつつある。記憶と記録は異なる。記憶と記録の間には何か「空白」らしきものがある。記憶の事実から記録の事実へ変換するとき、記憶の事実は「空白」を通過して記録の事実として記述される。

その空白の中で何が起きているか。事実は改変され編集される。記憶の事実と記録の事実は違うんだ。

記憶は起こった出来事を正確に保存しているのかな。デジタルデータのビットのように。記憶の構造と認知言語学、僕の興味はこの二つ。ここからさらにもっともっと小さくて、でも確実に理解できる領域へ進んでいかなければならない。覚えていないと記憶していないは同定じゃないと思う(科学的な解釈じゃなく)。比喩的な感覚。記憶は「記憶できた事柄」を保存できている。保存しているデータを取り出せないから覚えていない。そうじゃないと思う。覚えていない、というのは記憶が「記憶できた事柄」を保存していない。その人にとってあたかも存在していない「事実」になったんじゃないだろうか。

ああ、バカだな。ホントにバカ。もっとスマートにわかりやすく書けないのかな。もどかしい。

だとしたら、夢に出てくる「知らない人」は誰? まったく知らない人が夢に出てくる。わりとある。街の中で出会った人をスキャンしてその画像が保存されていると僕は推測している。これは記憶?

過去の記憶を辿って事実を取り出す。入力された記憶の「事実」は「空白」を通過して記録の「事実」に出力される。

「空白」の中には感情がある。反省、後悔、批判、嫉妬、自慢、矜持、贖罪……。情動も含まれているかもしれない。

そして、「空白」の中には時間がある。

未来の自分が過去の自分を取り出し現在の自分へ託す。託された現在の自分は「空白」の中で改変と編集を繰り返す。未来の自分がいる。それは他者を投影した自分。今まで出会った他者にあこがれて新たな自分を未来へ描く。形にならない漠然とした、でも想像する未来の私。願望でもあり絶望でもあり欲望でもある。あるいは理想かもしれない。

そんな未来の自分が過去の自分を取り出せば、「思うところ」をいくつも見つけるだろう。もどかしい。過去の自分の言動に対してではない。未来の自分がいますぐ「記録の事実」を出力できないからだ。時が来るまで待たなければならない。未来の自分は現在の自分に記録という作業を託すしかない。どれほどもどかしくても。

現在の未来は未来の自分(それはたぶん他者だろう)に対して承認を受けたくて過去の自分と対峙する。過去の自分、それ自身を書き換えられない。だから記憶から取り出した「事実」を記録の「事実」に書き換える。

過去の自分、現在の自分、未来の自分。記憶の「事実」と記録の「事実」と「空白」。それぞれが対になっているようだ。

僕の中にある「空白」の感情と時間は直線だ。まだ直線。でも、これがいずれ円環へ変化していくかもしれない、と想像している。これもまた想像であり、願望であり、絶望であり、欲望でもある。

一直線に進む生より円環を描く生。そしていつかその円環から脱出してほしいと眺める私がいる。じゃぁ、この私は誰ですか?