質的

2011.01.05 晴れ時々曇

今年中に読みたい本に出会った。『データ対話型理論の発見―調査からいかに理論をうみだすか』 バーニー・G. グレイザー, アンセルム・L. ストラウス『エスノグラフィー入門 <現場>を質的研究する』 小田博志

なぜ読みたいのか? コミュニケーションの「べき論」に疑問を抱いたから。いや、理由になってないよ、全然つながんない。ちゃんと戻ってきますから以下つらつらと。

一日の現場でコミュニケーションという単語はどれぐらい登場しますか?

定性的な未解決事項が現場で発生。どうやらプロトコルやルールが間違っていないらしい。そんな時、問題点はコミュニケーションだよって云われる。特に僕のような仕事をしていて助言的役割を演じていると口にしてしまう、さらりと。

そのコミュニケーションって何だろう?

ややもすると「コミュケーション」の問題をコミュケーション不足と指摘してトートロジーになっていたり。それでも現場は「べき論」的に理解している。

取引先との関係が芳しくない。部下のホウレンソウがままならない。同僚同士、先輩と後輩との間で情報がやりとりされない。あちこちで齟齬をきたす。

それらの現象はコミュニケーションで解説される。

コミュニケーションの単語が場に出たら解決の糸口はつかめた! って思い違いしちゃう。頭で理解できるから。べき論として。身体はついてこない。実践できない。続かない。続かない、という根本の事象はほったらしになって、またコミュニケーションへと帰ってくる。

日報や朝礼、会議を利用して伝達する。伝達の形式は成立する。成立したらコミュニケーションは改善される。そして懸案事項は解決される。ホントに? だとしたらボトルネックは伝達の形式だったの?

「コミュニケーション」を考えるとき、コミュニケーションの語源を辿る。コミュニケーションという単語を使っちゃいけないと思う。僕が先述した「コミュニケーションって何だろう?」「コミュニケーションとは?」なんて問いを立てたらダメなんだ。この問いの立て方そのものが間違っている。

文脈を少し遡る。

昨年から認知言語学の本を読み始めた。きっかけは UST で視聴した大学のシンポジウム。冒頭、ARGUMENT IS WAR<議論は戦争である> というメタファーを説明していた。そのスライドが興味深く、出典をネットで調べたら 『レトリックと人生』 ジョージ・レイコフ, マーク・ジョンソン, 渡部 昇一, 楠瀬 淳三, 下谷 和幸 だった。購入して読み始めた。他に『ことばと思考 (岩波新書)』 今井 むつみ『言語・思考・現実 (講談社学術文庫)』 L・ベンジャミン・ウォーフ を読んでいる。あと『認知意味論―言語から見た人間の心』 ジョージ レイコフ にも挑戦したい。

学問するわけじゃないし(何度もふれているけどそもそも”学問”を知らない)、論考するんじゃない。とにかく知りたい。仕事で実践してみたい。ウェブサイトの制作や打ち合わせで使えると思っている。なので読む。理解したい。何を?

現場を観察していて、「人が現象を認識するとき、言葉と思考が重要な鍵」と再確認したから。言葉と思考より行動の方が大切だと断言するけど、事態を認知していく上で「言語と思考」がやっぱり欠かせない。で、認知言語学の本を読み始めた。

観察と書いた。認識や認知を自分なりに模索している。観察はキーワードかなと思う。観察には二つある。って独断で想定している。一つは「机の上のオブジェのように、突き放して」観察する(by 茂木健一郎先生 )。もう一つは「論証を持って」観察する。論証は演繹と帰納と仮説推論に分類される。

以下は僕の思考(なんて大げさすぎるのです、でも何て書けばよいのか見当つきません)の連想ゲームなんだけど、僕の頭の中では「レイコフの認知言語学」と「パースの記号論」がリンクしていて、この二つが観察とくっついて、観察の根幹はアブダクションだよ、みたいな図が描かれている。

で、この図は空論的理論にするんじゃなく、それぞれの現場からその現場だけにしか適用できない実践的理論をみんなで話し合って実践してほしいって考えています。

で、その時に必要な手法が、質的研究なわけで、それを Amazon で検索していたら冒頭の二冊と出会ってしまったわけです。ふぅ、ようやく戻ってこれた。

今日は読書しながらこんなことを思い浮かべていた。自戒なんです、コレは。僕は「コミュニケーション」って魔法の単語をもっともイージーに利用しているから。