万劫

2011.08.16 薄曇りから晴れ

第三十八候、寒蝉鳴。蝉の鳴き声は夏の終わりを告げている。早朝と夕暮れの鳴き声は心地よい。ハマチが安い。とくに天然は安い。なぜなん? マグロよりハマチが好きなのでありがたい。夏は瓜、瓜は水分を多く含み、なかでも96%が水分である冬瓜。切らずにつめたくて暗い場所で保存すれば冬までもつ瓜。あんかけうまし。

夏を象徴するひまわり。今年のひまわりは昨年のひまわりと違う。“ハーモニー (ハヤカワ文庫JA)” 伊藤 計劃 の冒頭の描写がまさか現実の世界でみられるようになったなんていわれる日がくるかなって思いながらひまわりをみる。植物利用環境修復。

私は私のなかにはない。私は他者とまじわった瞬間に私はやってくる。やってきた私を私だと受け入れられるまでには時を待たなければならない。私は私のなかにあると思い私のなかから見出そうとしているかぎり、他者とまじわったときにやってくる私と出会えない。

他人の様態を気にすればするほど私は私から遠ざかる。他人の様態を気にかける己は我執に居着いている。我執が固着したら他人の欠点しか探せない。他人の欠点の発見は知識と感性に依存する。欠点の羅列はつよい快感を生む。私は快感を得るために他人の欠点を探す。円環。円環の中心は優劣と知識の多寡である。他者を褒められない己がどうして我をいたわれるだろう。

私と他者がまじわる。私と[他者とまじわる私]には隙間がある。私が他者にむけて発した言葉が私のもとにかえってくるまでのわずかな時の間に私は[他者とまじわる私]との差異を認識する。瞬間ごとに過去になっていく私といまの私の差異。その差異のなかに私は隠れている。

他人の様態に気づく感性を己に向けよう。私ともう一人[私と名乗る他者]の二つの声が重なり合い、ひとつへむかっていく。私のなかを空にする。私は私のなかを掘る。言い換えれば、私は私のなかに空白をつくっていくことしかできない。空白には他者が埋まっていく。他者が空白を埋めてくれる。

空白をつくる作業は孤独。孤独と向き合えなくなったとき、私は他人の欠点を探しはじめる。[全体]という大義名分のために[部分]の不完全性を排斥する。全体は完璧であると信じて疑わない。

正法眼蔵随聞記 三 十三 古人云く朝に道を聞かば夕に死すとも可なり

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.204

「朝に道を聞いたら夕べに死んでもよい」と論語はいう。論語を読んだことないので文脈や真意を知らない。十三を読んでどきどきした。わずか12行。この12行が姿形をかえ1冊の本となり本屋で売られている。何冊も読まなくても12行に記されている。否、読まなくてもよい。気づく人はすでに気づいていると思う。そんな人がうらやましい。この12行の起源はもっとさかのぼれるだろう。

昨日まで元気だった人が今日いなくなる。あることだ。そのときこの言葉が迫ってくる。なにかが起きなければ言葉の意味を考えないとしたら、すでに十三をなにも理解していないと思う。

いなくなった現実は過去になってしまう。そしてまたもとにもどる。もとにもどり、「後の事、明日ノ活計を思ウて捨ツベキ世を捨テず、行ズベキ道を行ゼずシて、あたら日夜を過ゴすは口惜シき事なり」がはじまる。誰かにふりかかったことは私にはふりかからないと錯覚してしまう。明日は希望と絶望と幻想の三角形なんだなぁって思う。

この先同じことがずっと続く、なんて誰が請け合ってくれるだろう。どうして永劫の前提を成立させられるのだろう。前提を疑わず時間をすごす。あるとき、時間がかき消された。不安が訪れる。その不安を消し去るために錯覚の未来を買う。錯覚の未来を買った人たちが現実を支え合う。