深重

2011.09.22 曇のち晴れ

台風一過にならず。朝は小雨。昼前に曇になって午後から薄日がもれる。

ウェブサイトの仕事をするようになって10年近くになる。会計事務所から転職してコードを自分で勉強して、サイトの作り方を見よう見まねではじめた。

色の使い方や広告について理論を学んでいないので、いきあたりばったり。なんとかしたくて町並みの広告や色、チラシや配布物、雑誌のフォントなどを意識的に見るようになった。

大阪駅周辺の案内板の配色やフォントやアイコンがかわっていくのを見ているとおもしろい。どうしてその配色を使ったのか考えてみる。いまの配色はわかりやすい。見やすいのではないわかりやすい。

情報とデザインについて向き合う。余計なものが多い。そう感じる。主観的な意見であり、今までと同じく理論を学んでいないし体系を知らないので、正しくないし論理的でもない。また他の人には余計なものではないだろう。

いまは情報を削ることと、相手の動きを想像している。またかわるかもしれない。紙なら相手が「手に取ったとき」の感覚や認識を想像する。書かなければならない用紙なら、手に取る状況と必要最小限の情報を記入してもらうデザインを考える。

ウェブサイトなら、「どこからきて何を見るのか」を意識して、「何を書かなくてよいか」を考える。見出しと短い文章を組み合わせ、箇条書きできるようリスト化する。「おもしろい文章は字面がいい」って何かで聞いた。ウェブサイトのテキストにもあてはめられる。

シンプルといえば聞こえはよい。反面、 “複雑さと共に暮らす―デザインの挑戦” ドナルド・ノーマン は、東洋のサイトを例にあげて、「ごちゃごちゃした色や動画で空間を埋め尽くそうと」していて、欧米の基準を破っていると指摘している。

西洋の簡素がよくて東洋のごちゃごちゃが悪い、二項対立の比較論じゃない。簡素であることは美的な魅力を引き出すが、生活をややこしくしている、とノーマンは観察している。ユニークな発想だ。おもしろい。

これまでも何度も書いてきたけれど、「わたし(たち)」の広告はつまらない。まるで選挙カーで名前を連呼しているみたいに感じる。「あなた」の視点がない。「あなた」へもたらすメリットを示していない(デメリットを示すやりかたもある)。

それともう一つ。わかりにくい。抽象的なことを書いているわけでなくてもわかりにくい。業界用語や専門用語を使わないと説明できないと思っているからかな。

正法眼蔵随聞記 四 七 衲子の用心仏祖の行履を守るべし

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.253

「ただそノ人の徳を取り失を取ルコトなかレ。君子は徳を取ツて失を取ラずと云ヘル、こノ心なり」という。その人の徳を学ばず、知りもしないで、その人の欠点を、あの人は立派だがこういう点は悪いと思ってしまう。

自分と向き合うのは難しい。10人中9人が、「どうしてそういう態度なの?」って忠告してくれても、私はそれを非と受けとめる。非と受けとめられても、認めたくない。否、良い悪いの問題ではない。にもかかわらず是非で感じる。結局、謝罪が生産されて消費される。消費されたら満足する。

他人の壁を高く設定できても、自分で自分の壁を高く設定しない。壁が高くても低くても、結局、自分で飛び越えなければならないんだけど、助走すらしていない自分を認識して派手に落ち込んで自分を慰める。まぁ、他人の「失を取る」よりは、関係の被害は少ないといえる。