忽然

2011.10.06 早朝雨のち曇から晴れ

「今から一杯付き合ってくれないか?」って不躾なメールを送信できる人がいないって気づく。今さらながら。別に断られたってよくて、「一杯つきあってほしい」って思うような日がある。今朝がそうだった。

相手の都合を考慮しないですみ、誘ったけれど断られて、でもしこりは残らない。次回、こりもせず誘って今度は偶然にも空いていたから一杯やる。そんな都合のよい人が、ダチかもしれないなぁって思うけど、自分が反対の立場にまわってそんな風に声をかけられた経験がないから、まぁ、そんなもんか、自業自得が漂流した。

英語ができなくてなんとかしたいのに、のんべんたらりんな日々に流されて、行動せずに満足してしまう。それに、英語よりも日本語すら理解していないなあって自分に言い訳して嘘ついて。でもね、自分、ほんとに日本語がわからなくて困るときって多い。

だって街頭でもらうチラシやお店のパンフレットなんかを読んだらいったい何を伝えたいのかさっぱりわからない。

伝えるって、「伝える」ではなく、その中には、なるほどって認めてもらう、何をやっているのかわかってもらう、行動してもらうように促す、商品やサービスを知ってもらうとか、いくつかの「要素」がある。伝えるは、それら要素のラベルでしかない。なのに「伝える」を伝えるようなトートロジーなプロモーションを目にする。

今回はどの要素を伝達したいのか読みとれない。説明や理解、訴求や告知があって、それぞれを同じ技術と論法で伝達している。説得と訴求では、展開の論法は違い、方法は変えた方がよいと思う。

もうひとつ。相手が媒体を手に取る、目にする状況を何パターンかシミュレーションしてみたら、日本語の表現に悩みまくって収拾がつかなくなる。もっとも表現したい”コト”を伝達する行為は難しい。

って、理解しているつもりなのに、自分が書いたメールや文章、ウェブのテキストを読み直すと唖然。さっぱりわからない。私はいったい何をお願いした? 何を説明する? 何を理解してほしい? のか読み解けない。なんだろ、この自己修正能力の低さは。

18:30にF先生の医院へ。大阪駅で途中下車してFacebookからチェックイン。大阪駅でチェックインしてコメント。儀式になってきた。書店で “脳科学の真贋―神経神話を斬る科学の眼 (B&Tブックス)” 小泉 英明 を検索。在庫なし。“創造の方法学 (講談社現代新書 553)” 高根 正昭を購入。19:00からF先生と打ち合わせ。少し遅れて19:30ごろからスタート。21:00に終了。小児へのアプローチを再構築。

頭の中でピースが見つからない。どんな絵になるのかわからない。ピースをコツコツ拾い集める。どんなピースがあてはまるか考えながら絵にする。完成図は書き換えられていく。

もうひとつのアプローチがある。はじめから完成図がある。その絵に仕上げられるピースをあてはめる。その場合、箱の中にピースがあって、適合と不適合を仕訳するやり方と、箱の外からピースを持ってこなければならないやり方がある。

ピースの形が微妙に違う。前の完成図と異なる完成図を仕上げるはずなのに、前の絵に使っていたピースを拾ってしまっている。微妙に形が違うと認識できる。ところが代わりのピースを探しはじめたら視野が狭くなる。自分の低能に付き合わないといけないってわかっているけどやっぱり嫌気がさす。

正法眼蔵随聞記 五 三 古人云く、霧の中を行けば覚えざるに衣しめる

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.282

霧の中を歩くと、知らないまに、着物がしっとりする。すぐれた人と親しめば気づかないうちに自分もすぐれた人になる。それを説明するための修辞。

そんなうまい話はない、と思う反面、なるほどな、と思う。なぜなら「すぐれた人」を見抜く洞察力を備えてなければ、すぐれた人に出会えないから、それだけの洞察力を備えてきた人なら、自ずとすぐれた人になるだろうなぁと私は思う。

可燃物に火をつけたら燃える。人は火をつけた行為が原因であると判断する。しかし、そこに可燃物がどうしてあったのか、という点を検討しただろうか?

どうもそこを見逃しているような気がする。