定相

2011.11.07 曇

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本を捨てる。定期的に30冊ほど捨てる。書架の背表紙が精神を涵養すると聞く。否定しない。そういう人は涵養する「書架」の選択眼を備えていらっしゃる。私は備えていない。日に焼けてゆく背表紙の変化を観賞している。せめて日焼けから科学的な興味がわき起こりやしないかと願う。

後から読み返す本の割合は5%未満かな。実際にやってみての体感的割合。最近だと “クリティカルシンキング (入門篇)” E.B.ゼックミスタ, J.E.ジョンソン, 宮元 博章, 道田 泰司, 谷口 高士, 菊池 聡“クリティカルシンキング・実践篇―あなたの思考をガイドするプラス50の原則” E.B. ゼックミスタ, J.E. ジョンソン を再購入。非常に参考になった。20代で読んだので10年以上前に購入したところ、いつのまにか捨てていた。

もったいなかった。本を捨てたことによって生まれた空間にいままで気づかなかった点がもったいなかった。桂離宮や慈照寺の空間は、削り落としていくためらいと無への渇望から生まれたんじゃないかと自己満足してしまいそう。”so what?”だな。

今年は甘酢やトマトソース、タルタルソースやらをちょびっとだけ覚えた。なので、甘酢を作っていると条件反射で涎がでてきそうで笑える。ソースの匂いが狭小住宅の部屋中に立ちこめる。風呂からあがってきて残り香が鼻腔を刺激する。数時間前に食べたのに腹が唸りそうだ。

包丁がこわくてなかなか握れない。包丁でけがしたことはないのにどうしてかな。子供のとき、歯をケガした。10年前、あることをきっかけにその体験がフラッシュバックした。それ以来、ケガやイタイ映像を視聴すると、からだがビクっと痙攣する。突然反応する。同時に、あの「映像」が頭の中で浮かぶ。

ここ数年、それがひどくなってきた。家人が気づき怪しむ。摩訶不思議な現象を垣間見た困惑の表情は苛立ちへ変わろうとしていた。ある日、自分でも「マズイ!」って自覚できる程度に体が痙攣した。ついに見かねて尋ねられた。正直に答えたので、それ以来、見て見ぬフリしてくれる。ありがたい。

それもあってか、包丁を握ろうとすると、あの「映像」がフラッシュバックしてきて、勝手に「痛い」気分になってしまう。

これって、脳のどの部位の信号が反応して過去の映像と恐怖の感情を心象させるんだろう? その点が興味津々である。いまは知覚できる。十中八九コントロールできる。ごくまれに突発的にビクンってする。それが電車の中だと必死。コントロールできなかったら焦る。

正法眼蔵随聞記 五 十一 ある客僧の云く、近代の遁世の法

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.324

めいめいが寒暑を防ぐ用意をしてから遁世する。あとで困らないようにである。小さなことだけど仏道を学ぶ助けになる。それに対して師は、何の準備もせず、ただ天運にまかせている。

自分の計らいで暮らしを立てたらきりがない。どの程度の暮らしならばよいという標準もない。ならば食べ物がなくなったら、それから対策を講じればよい。前もって考えるべき事ではない。そう師はおっしゃる。

むちゃくちゃである。身も蓋もない。でも、これなんだなぁって痛感する。“想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎によると、人は人ゆえに「いま、ここ」に己をとどまらせない。

人はひとゆえに想像するちからをもってして未来を取り込む。過去を書き換えて現在へリンクさせる。過去を反芻しながら現在の行動を上書きする。想像するちからが大海のごとく感情を生み出す。両方を読みながら想像するちからの中心に無があるんじゃないかな。そんなイメージを抱く。その無を獲得するために人たるゆえんから脱却する。想像するちからを捨てるかわりに想像力の源泉である無へ向かう。無と「いま、ここ」がつながってきそうな感じがするんだけどなぁ。