身命

2011.11.10 薄曇り時々晴れ

[youtube=http://www.youtube.com/watch?v=SDTZ7iX4vTQ]

さぁて、今朝の目覚めの曲はFoster The PeopleでPumped Up Kicks。MGMTが好きならこちらもフィットするでしょう。サイケなメロウの曲で一日をスタート。

ラジオから「歴史に学べ」と聞こえ、この言葉は自分の知見を装飾するキャッチフレーズになりやすく、長い長い時間軸と広い広い空間軸を掛け合わせた知性を備えていなければ真摯に訴える警句にはなりにくく、往々にして学んでいたら今がたいへんだとか、これからの世の中はヘンになっちゃうよね、とかうっかり言えたとしても、真顔で言っちゃいけないと自戒するし、現代がとかくたいへんな時代であり、なんだかヘンになってきていないかしらって訝り、いま、ここを特別な存在であるかのように過去と比較してみたりするのって、歴史に学んでいないよねって自嘲気味、そんなわけなくて、“いつだって大変な時代 (講談社現代新書)” 堀井 憲一郎 なんだとクールにクレバーな知性にふれられるいまが幸せだからこそ戒めよ自分、今日この頃。

といってもそれもだからってどうよ、なんですね。魚が鳥になれないし鳥は魚になれない道理を少しずつ理解できてきたので、自分をしっかりやっていかなくちゃいけないね、って久しぶりに鰻丼を食べる。アラ、また味覚が変わってしまったのかしらとの気づき。

銀杏はなぜ臭いのか? 検索する。大方の人が臭いと感じるならば、動物はどう感じるだろうって疑問がアタマに浮かんだ。銀杏を食べる動物も一様に臭いと感じるなら、銀杏は生存戦略上、酪酸とヘプタン酸を主成分とする臭いを進化の過程で獲得したんだろうか。臭いと感じる動物はいるらしいが、平気で食べる動物もいるとのこと。

それにしても、臭い外皮の中の身はうまいはずと人間は当て推量したんだろうか。それとも、飢餓に直面して臭いなんておかまいなくて、口にしてみたらうまかったからびっくりして今に至ったのか。魚にも毒性や外敵から身を守る手段を備える種類がいて、植物にもいる。推論を重ねると、存外、野菜のなかには、人間に負担を強いる種類もあるかもしれないなって興味がわく。

“想像するちから――チンパンジーが教えてくれた人間の心” 松沢 哲郎 のなかで「なぜ目は二つなのか?」「どうして目は上下ではなく左右なのか?」という疑問を著者の先生が持っていたと読んで、唸った。すごいな。思いつかないから羨ましい。こういう素朴な疑問をどれだけ思いつくかが豊かさの「ほんとう」ではないか。そう想像する。

「どうして?」って疑問を思いつくのは難しい。子供のような「どうして? どうして?」って発想は素直である。ユニークとエッセンスを気づかせてくれる。大人になっても持ちつづけたい。一方で、子供の「どうして」じゃない「どうして」もあると思う。

子供の質問は、瞬発力が強く短距離だとしたら、大人の「どうして」は、持続力が強く長距離である。心のスイッチがONになって関心がリンクしていく。

問題を設定する難しさをいつも痛感する。「何がいったい問題なのか?」を見極める。

正法眼蔵随聞記 六 一 仏法のためには身命ををしむ事なかれ

正法眼蔵随聞記 ちくま学芸文庫 P.330

いよいよ最後の六。岩波文庫の底本になった従来の正法眼蔵随聞記では、この六が最初にくる。ちくま学芸文庫の底本である長円寺本は、六が最後にくる。どちらが真か知らない。

「いかに利智聡明なる人も、無道心にして吾我をも離レず、名利をも捨テ得ざル人は、道者ともならず、正理をも心得ぬなり」とおっしゃる。一般論ではない。仏法を学ぶ者についての心構えを説いている。だけど、一般論に通底する心構えとも受けとめられる。

自分を捨てなさいって教えが姿形を変えてとにかくよく出てくる。そのたびに「自分を捨てる」とはどういう状態だろうかって悩む。自分が学ばなければならない根本はそこにあると思う。