そのうち「声」そのものを創造しそうだ

2012.09.06 薄曇りのち雨

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今朝は Marky Mark And The Funky Bunch – Good Vibrations でスタート。ファンクが好きだからファンク系?!のラップ もお気に入り。これはファンク系っていったら怒られるかなぁ。まぁ、あんまり知ったかするとしっぽを踏んでしまうから自重。

FM802でHIRO Tさんが、「僕はライブがきちんとできる人でないと評価しない」みたいな主旨をおっしゃっていた。ながらで聞いているから正確に覚えていない。真意はわからない。言葉の上っ面だけつかまえて「うん、そやね」って賛成した。

HIRO Tさんのもとには膨大な量のデモテープが届くだろうから、なかにはテープのパフォーマンスがよいのにライブはダメ、って人もいるかもしれない。

身近な体験でいえば、CDやラジオで聴いた曲を口パクなしで聴いたときに椅子からころげおちそうになったことあるし、弟がスマッシュヒットしたラッパーの生演奏を聴いて、もう聴かないってあきれかえっていたのを耳にしたり。

いろんな事情や背景があるんだろうね。PCの画面上で「音」をcreativeできる。PCでcreativeしたほうが「ほんとう」の音になり、本人が歌ったり生で演奏した音は、「音源」になり、creativeする側からしたら「源」はなるべく没個性なほうが手を入れやすい。

写真も似たようなことがおきる。デジタルカメラになって「現像」がなくなったと思いきやそうではない。RAWという形式で撮影して、専用ソフトを使って、自分の思うような画像へ「現像」する。だから、「現像」のもととなる写真はなるべく平凡がよい。白飛びさせず、色を写し取ってくれたらあとはソフト側で編集する。

なにが「ほんとう」かわからない。

そんな時勢は、ほんとうをゆらぎさせる。一方で「ほんとう」だと錯覚させてくれたとき、どんどんのめり込んでいける。ライブがおもしろいのは、「ほんとう」だと錯覚させてくれるからだ。CDの音から引き算された「音」があって、同じ曲でもライブで聴くとイメージがまったく異なる曲がある。CDにははいっていない「音」を削ったらとってもステキな曲になっておどろく。反対もある。お気に入りのCDの曲をライブで聴いて、アレ?って感じとか。

CDの音とライブの音は両方とも「ほんとう」だと僕は思うけど、ひとつのバンドに対して二つの「ほんとう」があったら気持ち悪いので、どっちかが「ほんとう」であると思い込みたい。となると、やっぱり「リアル」でみたモノとコトがほんとうと認識する。

そうなったら、今度はCDでライブの曲を聴くとどうも違う。盛り上がるか否かじゃなくて、音の質感そのものが違って聞こえてしまう。

琵琶湖が私を見てる

フリーランスになって9年経ち、ようやく無謀な立脚点に立てるようになったせいか、組織の常識に遭遇したとき承認と懐疑の両方を吟味できるようになってきた。あいかわらず良い悪いで論じる気はまったくないけれど、組織の中にいる人たちから話を伺ったとき、「組織の中で躍動する意見」だって感じる。

組織の中には呪縛や制約や関係があり、それらが認識に影響を与えている。それらの要素を前提にしないで、前提を破壊してしたらどうなるだろうって、遠回しに尋ねても、同じ前提にもどってくる。ぼくも「遠回し」にするってことは、目の前にいる人たちとの「関係」に影響を受けている。そんなことを気にしなければ、遠回しに尋ねなくても率直に「それ、通用しないと思います」って述べられるはず。

CDの音とライブの音は両方とも「ほんとう」だと思うって書いておきながら、CDが売れないのは違法DLだけじゃないって書いたら支離滅裂なんだって承知して、CDのお話しは尻尾を踏むから踏み込みたくなく、なんでCDが売れないを取り上げたかというと、組織の中の人たちの意見が、「CDが売れなくなったのは違法DLのせいだ」や「本を読まない人が増えたから本は売れない」と似た構造だなぁって感じる。

ひょっとして組織の中が幻想で組織の外が現実かもしれないって、眺望点があるよね。