君のなかに私をみる

2013.06.05 晴れ

[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=6VwN4fVtixk]

The Miceteeth – 霧の中 でスタート。ライヴで見たかったなぁ。ソロではライヴしていらっしゃるから運よく聴けるかもしれないけれど、SKAで聴きたかった。歌詞が小説みたい。

先週、某SNS で「君の中に私をみる」と書いた。ワンフレーズ。

昨年からの題材。きっかけはわからない。思考未満の心象の破片が組み合わさってきた。破片と破片をあわせる。はまらなければまた違う断片を探す。そんな思考未満の作業を繰り返す。

自分の中には理想の像がある。理想でないなら願望か欲望か。いまの私と未来へ「化」けてほしい私との亀裂。もし亀裂のペルソナを詳しく記述できたら、あとはそこへ近づけばよい。

たいていは具体的に記述できない。漫然と時を過ごすのと似ている。茫々とした「化」けたい私を私自身が背負っている。

背負われている化けたい私。背負われている間はモノローグ。なのに時折、その私は私自身から幽体離脱して誰かへインストールされる。

もっとも下品なインストールは、「私は変わった。あなたは変わっていない」だ。これほどひどいバグを含んだアップデートはないと思う。

目の前にいる人のふるまいが、「私の描いている像」と違った。違って「あたりまえ」だ。あたりまえは、独白と対話の境目を示してくる。

違う、という事実を自分のなかで吟味していく過程が独白であり、なぜ自分の像(の範疇)とずれているかを問答する行為が対話である。

どこまでを吟味してどこまでを問答するか。境目で揺らぐ。

信頼とは、相手のなかに私をみたときに、相手を許せる「範囲」かもしれない。違って「あたりまえ」のコトを許容できるから未来を託す(できなければ託せない?)。

違って「あたりまえ」をそのまま受け入れられるか? たとえ自分の像(の範疇)と正反対でも、受け入れてコトにあたる。それは信頼? 相手と私の像が相容れず対立しても、それらを乗り越えて、限りなく二つの像に近いままでコトにあたり成し遂げられたとしたら、それは信頼? そのへんをウロウロしている。まだ設計すら持っていないから言葉を積み重ねられない。

螺旋階段

以前にも書いた情報量のトリビアル。ニューヨークタイムズの1週間の情報量は、18世紀の個人が一生をかけて得る情報量よりも多い、という話。ソースをあたっていないので真偽は定かでない。正確な情報量は測定できないにしても、情報量の爆発的増加は止められない。そしてこれから乗ずるように増大し続ける。

情報量の増大は、「言葉」をもたらした。いまこうして「違ってあたりまえ」と書いているコト自体が情報量の増大している現代の環境に依存している。

身体のレイヤで「違ってあたりまえ」と理解していない。感情のレイヤで「違ってあたりまえ」と処理できていない。

言葉を重ねて言葉で思念して言葉で記述して理解しようとすればするほど、身体と感情での「違ってあたりまえ」からは遠ざかる。