2013.10.04 晴れ
[youtube:http://www.youtube.com/watch?v=hOFrGbuUqnQ]
Roberta Flack “The First Time Ever I Saw Your Face” でスタート。詩に近い印象を持つ歌詞。目が見える人は、相手の「顔」を見て、自分の表情をリアルタイムに想像して、意識・無意識に相貌を補正する。
第四十八候、水始涸。刈り入れの準備。だけど先日の台風の影響で京都や滋賀の農家の方々は甚大の被害を受けている。丹精込めて育てた農作物。「自然は」のフレーズを頭で理解したら危険だ。
旬の野菜は生姜。薬味の概念とスタイルは日本人ならではなのかしら。海外だとスパイス? なんでしょう。大人になってもあんまり好きなほうではなかった。山椒をぱぱっとふりかけたり、茗荷といっしょに口にする光景を目の当たりにしても、はてなマークが頭の中でメリーゴーランド。
ここ5年ほどか。食べるようになり、また風味(を理解しているとも思えないが)を味わえるようになったのは。
不安は生活の薬味。薬味であるうちは生にアクセントがある。いつしか薬味の対象であったものが消える。不安が対象から切り離されて、不安そのものが増幅する。ごはんやおかずではなく薬味だけを食べている。それを好んでいる人はいらっしゃったとしても、不安という薬味そのものをガシガシ食べていたら、不安の主がわからないまま不安が転がりそこら中にある不安を吸い寄せて不安の球はどんどん大きくなる。
朝夕、祭りの匂い。たぶん金木犀? 銀木犀? どちらも? その匂いがリーダシップを発揮して辺りの粒子を引き連れて空気の中を行軍している。
その行軍を目にすることはできないけれど、嗅覚が健康ならば、あとは想像する力にまかせよう。どんな粒子を引き連れて行軍しているか。匂いと祭りがリンクした記憶は、未だにほどけない。
空と桜の木(だったと思う)。クライアントのすぐ隣にある公園。
画像設定を白黒、露出は+2で撮影した。+2限界。ハイキー。ふだんあんまりこういう撮り方はしない。ミーティングに入る前に立ち止まって空を見上げていたら突然やってみたくなった。実際に目にしているのはやや曇気味の青い空。
写真は誰かに見てもらってこそかな? 見られるは磨かれる。見られることの意識が閾値を超えたとき、「どう見られるか」が基準になる。
「どう見られるか」の意識が芽生えてこそ、写真は進化するかもしれない。私はそうではないみたい、今のところ。「どう見られるか」の意識は、無難や妥当を選択する。適正露出や色彩が気になる。
その意識をアンインストールできたとき、自分だけの写真を撮影する。自分が楽しかったらそれでOKの写真。この一枚に満足していない。あとから見返して、何を撮りたかったかわからない。コンセプトがないから。
でも、自分の中に「残した」一枚。
「どう見られているか」「どう思われるか」の意識はないよりあったほうが、対人関係は円滑に進むだろう。代償は黙殺である。円滑に進みすぎて、滑りすぎて、大切なことが黙殺される。大切なことを認識したか、していないかわからないけれど、大切なことよりも平均や無難や打倒の着地点を探して降りる。
「どう見られているか」は、自分の周りの空間をハッピーにするアイデアを発見できない。「どう思われているか」は、他人へ嘘をつく前にまず自分に嘘をつく。