琵琶湖の夕暮れ

同調すれば鈍感は養われる

2014.04.27 晴れ

[youtube:https://www.youtube.com/watch?v=Eog86HbSSQw]

天才バンド / 君が誰かの彼女になりくさっても でスタート。何回聴いてもあきないなぁ。こんなにもどろっとしていない未練の歌詞って素敵です。

薄っぺら。

使いこなせないのに使うから。リアルやバーチャルやらカタカナを使うなんてナンセンスだ、って言うのが億劫になるぐらいカタカナがおかしいんじゃなくて、私は周りから入ってくる単語に鈍くなってカタカナを使いこなせない。

正月に放映された「京の“いろ”ごよみ~染織家・志村ふくみの日々~」をくりかえし見て、“一色一生 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)” 志村 ふくみ, 高橋 巌 を読んで感じたこと。一つのことにひたすら向き合い、ものと対話して、手と足と眼を動かし続けたから生まれる表現。

色が漢語で記述され、和語と相まって豊かで深い文章に没頭する。文学のような文でも実用的な文でもない。色と暮らしと織物の営みがただあるがまま書かれている。凛として静寂で気品のある物腰の文章。

その表現を前にして何も生み出さない私は口をあんぐりあけたまま惚ける。畏敬と畏怖がかわりばんこに入ってくる。薄っぺらい単語を使って口を回している私とは正反対の世界。

何を表現したいかわからず単語をつなぐのと表現はあるけれど言葉にしないだけなのとではまったく違う。月より遠い距離が両者を隔てる。

向き合い続けた人の言葉は映像的。目の前で移ろう毎日の暮らしやものを淡々と描く。余計な修飾はない。描かれる対象そのものがすでに人に届く形。

写真に置き換えたら理解できそうだ。カメラの機能や性能が気になる。撮った写真を見る。しっくりこない。機械をいじる。自分の腕が不確かであるにしても、ひとつ忘れている。それは何を撮りたいか。

素材。対象そのものの佇まい。

中身。

向き合い問い続けられる物事をひた向きに探すこと。

( いまのじきはいろんないろがまちにあります。ようやくこのとしになってはなのいろにきょうみをもちはじめました。これからいろんないろにふれてください。「まっしろ」っていうしろもあります。いろはおもしろいですよ。 )

パンジーと芝桜

録画していた「Brakeless ブレーキなき社会 ~JR福知山線脱線事故9年~」を視聴した。会社勤めしていたとき、利用していた路線だったから、何か受け止め方が違った。いまも変わらない。振り返ってみると、この事故の特集や報道は見るようにしている。とはいっても事故調の報告書を読むとか一次資料にあたるといったとこまでしない点は怠惰である。

BBCとの共同制作もあってかNHKらしからぬ構成と描写だった。60分版がイギリスで放送され、これから世界で放映されるらしい。

“DELAY 80 seconds”

番組の検証チームは80秒の遅れと判断したみたいだ(90秒といわれるが諸説ある)。”DELAY 80 seconds” が107名の命を奪った。

列車が80秒遅れたらホームに立つ私はどう感じるだろう。ひょっとしたら何か感じること自体が事故につながる間接的な要素を形成していたかもしれない。

番組はスピード社会と効率へ疑問を投げた。他方、私は「同調」を感じた。周りと同調しなければ立ちゆかない生活がある。

同調への保証は鈍くなれること。あるいは鈍感と敏感が入れ替わることかも。敏感でなければならないシーンに鈍感であり、気にとめなくてもよいことに敏感になる。

周りの援助を受けつつ独りで向き合って独りがもたらす志村ふくみ先生の敏感な感性と周りと同調することで養われる鈍い感性は対になっている。

そんな構図が浮かんだ。