2014.07.30 晴れ時々曇り
So What – Miles Davis でスタート。Kind of Blue をずっと聴いている。久しぶりに聴いたらやっぱりよくて、すっかりマイブーム。どこへ行くにもこればっかり。iPodはMiles Davisだけでよいんじゃないかしらっていうぐらいのくりかえし。
誰でもゴミ屋敷の住人になるかもしれない。『巡礼』を読んでからそう思うようになった。誰でもその人だけの人生がある。ドキュメント72時間(NHK)を視聴するようになってからそう感じるようになった。
いろんな人がいて、事実は小説よりも奇なりだし、かたや小説は奇に遭遇する心の待ち受けを用意する。『フォト・ドキュメンタリー 人間の尊厳――いま、この世界の片隅で』
のような絶句さえできない生活がある。巡礼や72時間を知る前から字面では「いろんな」を垣間見た。字面の理解は破線の輪郭だった。破線の間隔はJRの一駅より長かった。数年前から輪郭はくっきりして実線に変わってきた、急速に。
はねた油が皮膚にあたるようなリアルさで「いろんな」の輪郭が実線に描かれるようになってから、賛成や反対をすぐ答えられなくなった。
#Gaza #Ebola を追いかける。追いかけたところでどうもできない、どうにかなるわけでもない。だとしても追いかけずにはいられない。はるか彼方よりも国内のできごとに目を向けるべきかもしれない。それより自分の足下を固めて、しっかり生活できるようにしなければならないわけだが、現地の映像と報道から目を背けられない。
「なぜあんなことが起きる?」の倫理感を起動させても先へ進まない。条件反射の「なぜ?」と道義の「どうして?」が入り混じる。立ち止まりたくないから背景を調べる。歴史の入口に立った途端、二の足を踏む。膨大な量。「○○ ネタバレ」と検索すれば一瞬で回答してくれる時代に、辞書の「あ」から読むかのよう。
戦闘で市民が殺され子供が惨殺されても、イスラエル国内では #Gaza の戦闘を支持する。高い支持率に唖然とする。唖然は一種の自慰かもしれない。唖然としてれば、自分が世界とシンクロしている感覚。
唖然は、背景と過程を勉強してからでもできる。
賛成と反対の主張は欠かせない。煎じ詰めればどちらの側に立つかの選択を迫られる。「どうにかしなければならない」強い信念が、賛成か反対を唱える。唱えはいつしか「分ける」ことに腐心していないだろうか? あなたはどちら側かを迫り、こちらにいない人を探して責める。排斥する。
震災の瓦礫を受け入れようとしなかった滋賀県に憤怒した(いまでも納得していない)。沖縄県外から基地を移動させようとしたら断り、近所に保育園が建設されようとしたら反対する。「どうにしかしなければならない」と頭で理解しても、手足が届く範囲にやってきたら拒否する。( ばいかもです。みずがながれるばしょにはえます。うめのようなしろいはながさきます。つめたいみずがおきにいりのようで、こちらではきれいなみずがながれるところでしかみられません。そちらではみられますか )
友人がときおり連絡してくださる。近況が書いあり、読むのが楽しみである。不定期のメールが、ここ最近は数通続いた。それらの行間には、「最近どうしてますか?」の心配りが埋め込まれている、と私にとって都合よく錯覚している。自分に有利に錯覚したり誤解する能力は、仕事以外に必要だと思う。
明るい部屋―写真についての覚書と写真論を読み終えて、写真を撮ることがますます好きになった。もっとうまくなりたいけど、それ以上に「撮る」ことそのものが楽しい。そして私の場合、少しだけ言葉を添えたい。下手さをごまかしたい意図も少々あって。
光と影と色の立方体にことばの楼閣をつくりたい。