[Review]: わかったつもり 読解力がつかない本当の原因

わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)

「わかった」状態というのは、「わからない部分が見つからない」という状態とも言い換えられる。そして「わかった」から「よりわかった」へと探索活動をはじめるスタート地点にたっている。しかし、後から考えてみると不充分であったと指摘されるような「わかり方」にしばしば遭遇する。

スタート地点にたっていると認識していない(できていない)。皮肉なことに「不充分なわかり方」、つまり「わかったつもり」になるのは、ある事象を「わからない」からではなく「わかった」から引きおこされる。

「わかったつもり」は放っておくとそこから先へ進まない。かなり強固な「状態」。では、なぜ私たちは「わかったつもり」になるのか。「わかったつもり」の犯人は? 言葉を駆使しているようで言葉に惑わされる私がそこにいる。

「わからない」部分があれば、そこからすぐさま次の探索や対応に移れるのですが、「わからないことがない」のでは、なかなか手の打ちようがありません。その意味で、「わかった」状態は、よく言えば一種の「安定」状態なのですが、逆の言い方をすれば「停滞」状態なのです。「わかったつもり」から「よりわかった」へ至る作業の必要性を、本人が感じない状態でもあるのです。「わかったつもり」は、このような意味で、かなりやっかいな存在です。

『わかったつもり 読解力がつかない本当の原因 (光文社新書)』 西林 克彦 P.80

小学6年生の国語の教科書(東京書籍『新しい国語』6年生下 平成8年版)に掲載された長文をとりあげている。題は、正倉院とシルクロード。読んだあとに本書の質問に答えようとしてぎょっとした。自分がいかに「わかったつもり」でいたかを体感。

そもそも文章を読むとき、実は「読めていない」のだ。その「状態」を把握していない。題名からあらすじを予測して読んでいるからではない。「自分の知識」が「文脈」の意味を勝手に補完してしまっている。「全体の雰囲気」が「部分の記述」から、「全体の雰囲気」に都合のよい「意味を引き出し」てしまっている。

反対もある。たとえば、文法も単語も「理解」しているのに、なんの話かさっぱり「わからない」という経験。そしてこの話は一体何なのかを紐解く「スキーマー」を第三者から教えてもらうと途端に氷解する。

スキーマーとは私たちの中に既存しているひとまとまりの知識をさす。心理学、とくに認知心理学の分野で用いられる呼称。私たちは何の話かを示唆されると、どのスキーマーを使えばよいかわかり、それらを使って眼前の文章を処理していく。置換すればスキーマーが使えなければ、何の話かわからない。

本書を読了して「わかったつもり」をわかったつもりになった。下手に「スキーマー」を持っている分、自分の瑣末な知識を援用して「わかったつもり」や結果だけに焦点をあて「わかったつもり」になってしまっている。

「わかった」と思ってレビューを書いている今でも、「自分は”わかっている”と思っているけれど、”わかったつもり”の状態にあるのだ」とはっきりと認識できていない。「わかった」の「停止」状態で安住している。それほど不充分な「わかった」である「わかったつもり」を壊すのはたいへんな作業だと痛感。

「わからない」を自覚するには?

他方、読了したときひとつの疑問が浮かんだ。それは「わからない」を自覚するには何が必要という疑問。本書は「わかったつもり」を説いた。つまり、「わかった」を前提にして、その「わかった」はふたを開けると「つもり」だよと諭している。

しかし、「わからない」の「状態」を解明していない。解明していないと書くのは失礼だろう。本書のテーマではない。

「わからない」とは一体何で、「わからない」という己を認識するには、何が必要か。「わかったつもり」を壊すのではなく、「わからない」を気づかない私を壊すには、何をわからないのかと考える自分が必要ではあるまいか。このあたりでまごついていて何やら一歩も進めない私がいる。

「わかったつもり」を打破するのは「書いていない」ことを探求する力だと本書は指摘した。同様に、「わからない」を自覚するには「知らない」ことを探求する力が必求められるのか。おそらく違うだろう。では一体何か? 「わかったつもり」の私が本書から得た「わからない」が”それ”である。