「寝ながら学べる構造主義」の続き。今回、内田先生の著書を手に取ったのは、二つの動機があったから。
- 内田先生の著書を読んでみたかったから
- 「構造主義」のトラウマが甦ったから
1.はそのまま。問題は、2.。ドロップアウト時代に、筒井康隆の『文学部唯野教授』を初めて読んで、いかに自分が頭が悪いかを納得させられたという苦い思い出をもっている。あれから、かれこれ7,8回チャレンジして読了するたびに思う。
「ストーリーは理解できるし、抱腹絶倒した。でも、肝心の講義がさっぱりワカラン。頭悪すぎるなオレ…..orz」
ちなみに、『文学部唯野教授』の目次。
- 第一講 印象批評
- 第二講 新批評(ニュー・クリティシズム)
- 第三講 ロシア・フォルマリズム
- 第四講 現象学
- 第五講 解釈学
- 第六講 受容理論
- 第七講 記号論
- 第八講 構造主義
- 第九講 ポスト構造主義
その当時に筒井康隆氏を知って激ハマリ。氏のフェミニズムやメタフィクション、痛快批評、アイロニーに感嘆して、「文学」といわれる分野に足を踏み入れようかと思案。で、この書籍に体当たりして木っ端みじんになったわけ。
特に第8,9講の『構造主義』は降参。はぁ?構造ってナニ?って感じ。何度読んでも同じ。去年も読んだ。おまけに、僕の友人に文学部出身の方がいないので、教えを請うこともできない:’-)
ところがそれから少し変化が起こった。最近、どうも腑に落ちない、まだ言葉にできないから概念にもならないモヤモヤの状態がつづいた。"何か"が共通している。その"何か"の手応えがまだつかめない。自分のなかにヒントはある。
「知ったところでどうなる」的脊髄反射でも述べたとおり、
書く→技術→論点→知識→論理→論理学→哲学・思想
と、読む分野が変化し、それに伴い興味の対象が広がり、収集がつかなくなった。というよりも、ますます自分が無知になる恐怖を感じたかな。で、根本ってなんだろうって探究しないと収集がつかんなって。
おまけに、平行して経済学の勉強をしていると、こちらもどうも哲学・思想が影響している。なおさら哲学・思想・論理学をさわりたいって欲望に。
そしたら、ますますモヤモヤ感が増幅する。ナンダ、これは!
そんな時に、今回レビューした「寝ながら学べる構造主義」に遭遇。「構造主義」という文字と、筒井康隆氏のトラウマがリンクして、なんか旭屋書店で偏頭痛したので手にとった次第。
読んでみて、わかった(つもり)。あっ、ラカンは除く。「構造主義の入口がどこらへんにあるのか先生の書いてくれた地図でわかった(つもり)」になったら、モヤモヤ感も少しだけスッキリした。
あと内田先生が言う、「入門者のために書かれた解説書」をチョイスできれば、自分が哲学・論理・思想のどのへんの道を選択して深めていけばいいのかひらめきそうな予感。
それにしてもどうも僕は、演繹法の思考が苦手という致命的欠陥をもっている。それが苦手ということは、自然・社会科学の理論を体系化する能力がないといえる。これは、かなり自分でもマズイと認識しているんだけど、なかなか改善できない。
思考の癖が、帰納的推理になっている。だから、今回のような哲学・思想・論理の分野の書籍を読むと、「危険が危ない」ってナニを言っているのかさっぱりワカラン状態になってしまう、って得心した。
さて、これからもう一度、『文学部唯野教授』にチャレンジするか。