[Review]: おじさん的思考

「人間の欲望は他者の欲望を欲望する」のであれば、”欲望を喚起する”根幹は何なのだろうか?それを知りたい。

エマニュエル・レヴィナスによれば、官能において私たちが照準しているのは他者の肉体ではなく、他者の官能である。一方、他者が照準しているのは私の肉体ではなく、私の官能である。私は他者の官能を賦活し、他者の官能は私の官能を賦活する。つまり、性愛の局面において、私が快感を得るのは、相手が私から快感を得ていると感じるからであり、相手が私から快感を得るのは私が相手から快感を得ていると感じるからである

“「おじさん」的思考” 内田 樹 P.48 “教育とエロス”

著者は、もう何度も本ブログに登壇していただいている内田樹先生。のっけからエロスな雰囲気を醸し出してしまい、朝の方々には失礼。この年になると下手なピーよりも性描写のない淫靡のほうがシナプスを活動させるみたい(笑)

いきなりそれたので戻すと、本書を読了して印象に残った箇所に付箋をはり、そのなかからさらに厳選したものを引用した(今の愚生の主観で)。この引用箇所の構造は、教育現場の教師と学生の関係にも類似していると先生はいう。すなわち、「自分に欠けているもの」を満たす「知者」に出会えるという期待である。ただし、期待は裏切られることが多いのも事実。一見すると、学生は「知者」への出会いを求めるようであるが、実は違う。

あくまで「他者の肉体」ではなく「他者の官能」である。したがって、教師が所有している身体でも知識でもなく、「教師が知者であろうと熱望するもの」である。「私(=教師)が所有しておらず、私が欲望しているもの」に他者(=学生)からの欲望は照準されている。この構図を読み違え、私(=教師)が「所有しているもの」そのものに学生が欲望を抱いていると思いこむと、悲劇がおこる。セクハラ教師やむやみにいばる教師、自動車教習所の教官が格好である。

この他にも本書の第四章に掲載されている、『「大人」になることー漱石の場合』の夏目漱石論はとても興味深い。そのなかで先の引用と関連する箇所を、最後に紹介。「こころ」に登場する「先生」と「私」の関係について。

「欲望を持たない人間」などというものは存在しない(それは「人間」の定義に反する)。「欲望を持たない」ように見える人間とは、要するに「欲望することを欲させない」人間、言い換えれば「欲望しないことを欲する」人間だということである。「欲望しないことを欲望する」のもまた「欲望」の一つの形態に他ならない。[…]この「欲望しないことを欲する欲望」こそ、あらゆる他者の欲望のうちで最も激しく「私」の欲望を喚起するのである。「欲望しないことを欲する欲望」は決して沈静され得ない欲望である。これほど刺激的な欲望は他に存在しない。「私」が「先生」に惹き付けられるのはだから当たり前なのである。同P.236-237

となると、”欲望”そのものを抱く根源はどこにあるのだろうか?どのボタンを押せば「欲望」というスイッチがはいり、「問い」という電子が「探求」という回路を駆けめぐるのだろうか?

それと同時に、次の事象について言葉をひろいはじめた。それは、「無関心という欲望の本当」である。

このジグソーパズルのピースをはめこめば、どのような「絵」になるのか—–愚生が最も欲望することである。

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Comments

“[Review]: おじさん的思考” への2件のフィードバック

  1. となると、”欲望”そのものを抱く根源はどこにあるのだろうか?どのボタンを押せば「欲望」というスイッチがはいり、「問い」という電子が「探求」という回路を駆けめぐるのだろうか?

    私にも良く分かりませんが、
    レヴィナスは「私に向けた他者からの問い」だと、そして、それに応答することだといっているそうですが、
    「他者」とは、私に絶対なりえない、かわらないもの、
    一方、「他のもの」とは、欲望ではなく、欲求であり、私に吸収できるものと定義づけておられます。
    キーワードは「他者」なんでしょうね。

    偶然にも昨日、レヴィナスを
    読んでいたもので。。。

  2. コメントありがとうございます。「他者」に合点がゆきました。先生のおっしゃるとおりですね。

    どうも書いているうちに堂々巡りになっていたようです。「他者」は奥が深すぎて愚生には?マークですが、めげずにかかわれるようにがんばります(笑)

    またご鞭撻のほどよろしくお願いします。