ついうっかり口にしていい単語もあれば、あえて口にせず己のなかで熟成させる単語もあるまいか。そして、愚生が私淑するのは、後者の単語について沈思黙考している他者の姿である。
花岡信昭ウェブサイト: 野球世界一を導いたもの
強調したいのはイチローである。とかく個人主義で、野球技術一筋に歩んだイメージの強いイチローが、この大会にはやたら興奮気味で臨んだ。日本代表の一員という立場に、この大リーガーが率先して加わった。優勝して日の丸を高く掲げ、感動に酔うようすはこれまでイチローを見てきた多くの日本人には、「違うイチロー」に映ったのではないか。
なぜ「違う」といえるのだろう。あなたの業界の人たちが「違う」と映してきたにすぎない、あるいはイチロー選手が「自分を見せるまでもない」というふうに、あなたにふるまってきたとか思わないのだろうか?
本心など知るよしもないが、義田貴士氏によると「変わったなんて思わない」とコメントしている。身近で接している人、イチロー選手の”圏内”にいる人からすると、「違うイチロー」と報じる雰囲気にかえってとまどいをおぼえるのではないか。
愛国心について、「心を法律で規定することは思想・良心の自由に抵触する」などと、まともに考えている教師たちがまだいたのだ。愛国心はどこの国の国民でも、当たり前に持っている気持ちである。国旗、国歌への尊敬も同様だ。世界中、どこを探しても、愛国心を否定する国などありはしない。
愚生は右か左の論戦に立ち入るつもりはないし、左右を論じるほどの知見をもちあわせていない。しかし、あえて恥をさらして抵抗したい。愛国心とは何なのか?
上のようなテキストに出会うと、いつも腑に落ちない。好きか嫌いかと問われれば、「嫌いだ」と答えるだろう。なぜなら、「当たり前にもっている」「ありはしない」と断言する愛国心とは何であるのかがわからないかぎり、否定も肯定もしようがないと愚考しているからだ。
「国を愛する心」のうち、「愛」という概念について「ああ、なるほど、そうだよね」というコンセンサスをいつ得たのだろう。少なくとも己に言及すると、抽象的すぎて扱いに苦心するし、やっかいだ。正直、わからない。およそ「愛」という意味を考える「ゆとり」はない。それよりも、憂い・怒り・想いといったわき起こる複雑怪奇な自己感情をどう処理していくかに追われている。
そんな愚にもつかないことを下手な考え休みに似たりでウロウロしている己につきあっていると、「心を法律で規定することは思想・良心の自由に抵触するなどと、まともに考えている教師たちがまだいたのだ」という論断にたじろぐ。「”自分”は法律で規定されなければならないほど何も考えてない、と花岡氏に想定されている」のかというサプライズだ。いきなり飛躍したかもしれないが、とにかく直感的にのけぞった。身体がそう反応しただけである。
「憲法とは何か?」なんてまったくわからないし、「思想・良心の自由に抵触する」という高度な見識もわからない。
なので皮膚感覚で放言するが、「よけいなお世話」である。愚考するに、国に対する感情は、それぞれが頭の片隅において、ことあるごとに出し入れするものでなかろうか。わざわざ明記しなくてもそんなこと出し入れしているのが、当たり前だろうというのが、愚生のあたりまえである。あとは言葉に表現しないか、もしくはできないかだ。少し誇れば、愛国心という単語を、スポーツに託けて「ついうっかり口にしない」のが、「もったない」を持っているつつましさだと思う。
「勝ち組・負け組」という指標は、とても分かりやすい指標です。「勝った・負けた」だけです。そして、この明快なる単純さは、そこにある「複雑なディテール」をたやすく隠してしまいます。「勝った」は、イコール「頭がいい、状況認識に優れいている」で、「負けた」は、イコール「頭が悪い、状況認識が古臭い」であり、「自分の負けを認めることなんか知性の業ではない」です。「勝ち組・負け組」というジャッジが、「頭がいい=知性がある」ということを、かなり限定的に使っているのはお分かりでしょう。だから、この言葉は必然的に、「未来のあり方」をかなり限定します。未来の選択が、「経済競争の勝者になる」という一面に限られてしまっているからです。『乱世を生きる 市場原理は嘘かもしれない』 P.23
「問題があまりにも単純化されて、その結果、複雑なディテールが隠されてしまう」わけであり、その結果、「未来のあり方」を限定してしまう浅慮をはらんでいる。
話を簡単にして結論を出したい気持ちを自制する、「結論を出さないこと」に対して耐久力を育成することが大切なのではないだろうか。易々たる結論よりも、結論がでない複雑な行程に向き合う知的持続力を熟成させる。
愚生が知りたいのは、思考の「仕方」である。思考の「結果」ではない。