正解を持っていても問題を認識していない

ほっとけばいつまでも読んで(もちろん漫画も含む)しまうのだが、ぜんぜん読めていない焦れったさと読書禁令を施行しようかというジレンマに陥る。「何もできなくなる」から。何はともあれやっぱり読書は不思議である。「出会うかもしれない」とワクワクしたときに「出会う」。本屋で何気なく物色していも、シグナルを感じて手に取っているのか。意識か無意識かと問われると返答に窮してしまうけど。

いきなり表題とは関係ない話から切り出して、このあとどう書いていこうかと不安をおぼえつつも、"まっ、いいか"。

2,3ヶ月前だろうか、ある企業のボードの方に「○○という事実を問題だと認識していないことが問題だ」と指摘させてもらった。手前みそとはいえ、たいへん失礼な物言いである。そうわかっていてもストレートに発言してしまうあたりが未熟というのか。ただ、このフレーズは極力テンプレート化せずに放出するようにと意識している。

もし放出したなら、同時に「指摘した自分」を疑うように課している。

  • 「ほんとうに問題なのだろうか?」
  • 「自分の頭がおかしいだけなのではないか?」
  • 「指摘できるほど相手の立場・背景を理解しているのか?」

を自問する。

「わからない」という方法幸いにもその方は立腹されず、終始穏やかに有意義な時間が過ごせた(つもり)。後日、会話のときに残したメモとICレコーダーをもとにあらためてふり返ると、「正解を持っていても問題を認識していない」のではないかとまた悩む。そんなへんてこりんな現象がなぜおこるのだろうということが、頭から離れなかったところ、左を読んで、「おお、なるほど」と膝を打った。

二十世紀は、「わかる」が当然の時代だった。自分はわからなくても、どこかに「正解」はある———-人はそのように思っていた。既にその「正解」はどこかにあるのだから、恥ずかしいのだとしたら、その「正解」を知らないでいることが恥ずかしいのであり、「正解」が存在することを知らないでいることが恥ずかしかったのである。だから、人は競って大学へ行ったし、子供達を競わせて大学へ行かせた。ビジネスの理論書を必死になって読み漁ったし、誰よりも早く「先端の理論」を知りたがった。それをすることと、現実に生きる自分達が知らないままでいる「正解」を手に入れることとは、イコールだと思っていたのである。『「わからない」という方法』 P.19

本書の内容を冒頭の企業にトレースすると、「正解」と類する、もしくは主張するもののなかに、「ビジネスの理論書」があり、「先端の理論」があるような印象を受けた。「問題」がなくて、いきなり「正解」がでてくる。いや、問題がないのではなく、「問い」か。「正解」まで到達した道筋がぼやけている(愚生が理解していないのも大いにある)。

学習—–つまりは、「既に明らかになっているはずの"正解"の存在を信じ、それを我が物としてマスターしていく」のである。ここでは、「正解」に対する疑問はタブーだった。それが「正解」であることを信じて熱心に学習することだけが正しく、その「正解」に対する疑問が生まれたら、「新しい正解を内含している(はずの)新理論」へと走る—–これが一般的なのである。同P.22

小学生のときに投げたひとつの質問をきっかけに、学習意欲を失い、欲求を満たす衝動に流された。その結果、学校を卒業してからようやく「学ぶ」がわかりかけてきた。とはいえ、愚生はまさにこの「学習」を踏襲してきた。

橋本治氏が指摘する「一般的な学習」とそうでない「学習」の違いに得心がゆくと、新しい分別がうまれる。企業組織の「問題」についての理解である。あくまで企業組織と限定しておく。

限定した理由は、「○○という事実を問題だと認識していないことが問題だ」と雄弁に指摘できる愚生の立場をのみこめたからだ。愚生は、「利害関係」(Eさん、ありがとう)というたいへんややこしい要素を内包していない。

「利害関係」なんて微妙なニュアンスを含む言い方をしてしまっては身も蓋もないが、それほど慎重に扱わないといけない性質のものだと思う。企業組織の中の「問題」は、利害関係を多分に含んでいる。その外側にいるものからすれば軽々と論じられても、内側の人からするとそうではない。外側の人の開けっぴろげな言動に接触すると、不愉快さが残る(かもしれない)。そこらへんの言葉にしがたい空気を嗅ぎつけるこつを会得する必要があると再認識した。

これ以上愚生がノーガクのは無責任だし、なによりここから先は自分がまだわかっていない。「問題を問題だと認識していないこと」と「利害関係」はどこかでリンクしているのかもしれないという「全体のなかの一局面」はみえた。もちろんまったく違う見解もあるし、固執するつもりはない。とりあえずはとりとめもなく愚考する。まずは、フレームをきめてとらまえてみよう。横軸に「意識した無関心」と「無意識の無関心」、縦軸に「やる」と「やらない」のマトリックスを描き、それぞれのマスに、「何がはいるのか」をやってみたい。