[Review]: 現代思想のパフォーマンス

現代思想のパフォーマンス (光文社新書)

「ねえ、これ何する道具なの?」—–今までこの視点をもったことはなかった。本書に登場する人物の思想や言説を「道具」としてなんて読んでこなかった。フレッシュな知見を与えてくれた一冊。まさしく、「部品の勉強はいいから、まず運転してごらん」という内田樹先生の言葉が身にしみいった。そうまずは「運転」してみないとわからないことがたくさんある。わからなくなったときにヒントを与えてくれる「道具」。それが「現代思想」。

本書は、これまでにない種類の本である。その目的は、現代思想の概説ではなく、現代思想をツールとして使いこなす技法を実演(パフォーマンス)することである。この一冊には、現代思想に貢献した六人の思想家について、案内編と解説編と実践編が含まれている。彼らの思想の方法が、どのようにツールとして取り出され、利用されているのかを読み取りながら、この本を楽しんでいただきたい。現代思想のパフォーマンス「まえがき」

本書には6人の思想家が登場する。

  1. フェルディナン・ド・ソシュール
  2. ロラン・バルト
  3. ミッシェル・フーコー
  4. クロード・レヴィ=ストロース
  5. ジャック・ラカン
  6. エドワード・サイード

6人の思想家は「案内編」「解説編」「実践編」によって記述される。案内編は生い立ちや人物像を簡単に紹介し、解説編は現代思想に貢献してきた「理論」を解説している。そして、実践編はそれらの現代思想を「道具」として使って題材を読む。読む、つまり実演(パフォーマンス)する。現代思想のパフォーマンス。例えばロラン・バルトの実践編「『エイリアン』を読む」(全20頁)から一部を抜粋してみる。

「猫なんてほっておけ」と観客は思う(少なくともわたしは思った)。宇宙船脱出の緊急時に猫に固執して船内を探しまわるリプリーの行動は、わたしの「意識に突き刺さった小骨」である。そして、わたしはそれを説明したい欲望に駆り立てられる。同P.145

「エイリアン」では猫が登場するが、その猫がたびたび主人公リプリー(=SIGOURNEY WEAVER)を危機に陥れる。宇宙船脱出時、リプリーはいなくなった猫に気づきなんと探し回った。そのシーンを目の前にして「猫なんてほっておけ」とツッコミをいれてしまうわけである。実際、私も実家ライブラリーに秘蔵しているエイリアン・シリーズを見るたびに「ほっておけ」とツッコミを入れた。では、バルト実践編を担当した内田先生は「意識に突き刺さった小骨」欲望をどうパフォーマンスするか?

おのれの自己複製の増殖にしか関心がない「蛇の怪物」エイリアンは、言うまでもなく男性の性的欲望の象徴である。その頭部のファルス的な形態も、攻撃の直前にぬらぬらと「勃起」する顎も、そこから滴り落ちる半透明の液体も、すべてが男性器を暗示している。一方、「猫」(pussy)という語が女性器を意味することは英語圏の観客のおそらく全員が知っている。エイリアンが男性器を、猫が女性器を表象するならば、エイリアンと猫の「意図せざる共犯関係」がリプリーを繰り返し危機に追い込むという話型がなにを意味するかはもうあきらかだ。同P.145

ここから一気にハリウッド史上に残るヒット・シリーズの「オープン・エンドの構造」を完成させたと締めくくる。言語学と記号学に興味を持ちだしている今日この頃、この「『エイリアン』を読む」とフェディナン・ド・ソシュールの「『不思議の国のアリス』を読む」は興味深く読めた。

「こんな構造分析しながらホントに映画を観ているのかよ」ってからかいたくなるのを自制して己はどうだと分析した。なるほど、全ての映画を実践編のように鑑賞していないまでも、最近の私の「見方」はたしかに変わってきている。先日観た『フィラデルフィアデラックス・ コレクターズ・エディション』の裁判シーンに違和感を覚えた(ストーリーはリンク先で)。「トム・ハンクスとデンゼル・ワシントン」 対 「弁護士事務所」という構図は当然なのだが、そのキャスティングである。

エイズのトム・ハンクス(解雇された弁護士)と黒人のワシントン(弁護人)は、解雇した弁護士事務所を「不当解雇」として訴訟をおこす。その出廷した弁護士事務所のメンバーは全員白人。そして弁護士事務所を弁護する人は女性。

  • 男性と男性 対 男性と女性
  • 白人と黒人 対 白人

「エイズ」というのぞき穴からこの法廷をのぞいたとき、「意識に突き刺さった小骨」がころがっている。上記のような構図はハリウッドにはたくさんある。今までこの構図に気づいても「小骨」をとりのぞけなかった。いやより正確には、気づいてからその先を考察する「進み方」がわからなかった。ところがようやく心持ち進めるようになってきた。

映画のストーリーとは別に、「何が潜んでいるのか」を探索し、構図を発見しようと努める。そして構図に気づくことができたら(自分が設定した構図が適切かどうかは別問題)、構図の意図は何かを類推する。類推した意図からユニバーサルへ考想するために必要なツールが「現代思想」だと本書を読んで納得した。

最後に余談ながら本書の中でもっとも感銘を受けたテキストを紹介。ジャック・ラカンの「解説編」より。

精神分析的対話の目的は、患者が「なにを」言おうとしているのか、その意味を確定することにはない。そうではなくて、患者をパロールの往還の運動のうちに引きずりこむことなのである。このときに分析家と患者のあいだに「転移」が成立し、患者は分析家を経由して「おのれ自身についての知」を獲得する。このとき患者が知るのは、自分の症状の「真の病因」などではない。患者がこのとき知るのは、あなたが欲しいものを手に入れるためには他者からそれを贈られなければならないという人類学的な真理なのである。同P.335

健康学習と医院運営の問題を解く(もちろん結論的解答ではない)示唆が含まれているような気がした。スタッフのみなさんいかがだろう?

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