[Review]: アフォーダンス-新しい認知の理論

アフォーダンス-新しい認知の理論 (岩波科学ライブラリー (12))

私が目の前の椅子に「無意識に座る」—–この動作について、実は椅子のほうが「”座る”をフォード(=〜ができる、〜を与える)」しているとしたら驚かないだろうか?本書はわずか117ページしかない。なのに正直、わたしはほとんど理解できずに読了した。それでも不思議な感覚にずっと包まれている。

アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。それは「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは知覚者の主観が構成するものでもない。それは環境の中に実在する、知覚者にとって価値のある情報である。[…]たとえば紙である。部屋の中からどのようなものでもよい、一枚の紙を見つけていただきたい。その紙はあなたの手で破れるだろうか?ふつう紙は、破ることをアフォードしている。しかし紙が「厚いダンボールの小さな切れ端」ならば破ることをアフォードしないだろう。つまり破れないと知覚されるだろう。ただし読者の手や腕が運動選手のような特別な筋力を持っていれば別で、ダンボールの切片でも「破れる」と知覚されたはずだ。『アフォーダンス-新しい認知の理論』 P.61

このページにさしかかる少し前から、「アフォーダンスは”動物にとっての環境の性質”ではなく”主観的価値が構成する認識”ではないか」と私は疑っていた。もちろん無学の浅慮にすぎず、ものの数分で論破された。

知覚者の主観が知覚されることの価値を決定していることを認めてしまうと、価値にはなんら実体がないことになる。価値は知覚者の欲求で勝手に変化してしまうことになる。ある物質が食べられるかどうかということは、動物の食欲によって変化してしまうのである。しかし、言うまでもなく「食べられるか、食べられないか」という物質の性質は食欲とは関係がない。そして空腹であろうが、満腹であろうが「食べられる物」というアフォーダンスは動物によって知覚されるのである。同P.64

ゆえに私たちは「価値のある情報」に反応するのではなく、情報を環境に「探索」する。探索するわけだから、「過程」がある。さらに探索は間違う可能性をもっている。つまり、私たちは環境のなかから情報を探索し、「椅子のほうが”座る”をフォードしている」ことを「獲得」し、「発見」する。

日常では無自覚のうちにアフォーダンスをピックアップしているが、実は、環境のなかにあるものが無限のアフォーダンスを内包している。ただし、それを気づかない。

私にはとても難しい。わからないことだらけだ。ただ、本書に記述されているなかから理解できる単語をひとつひとつ拾い上げて、アナロジーやメタファーを考えると病院の「待合室」もアファーダンスを内包しているのではないかと愚考した。

「待合室」は「患者に治療を待つようアファードする」ものなのかもしれない。しかし、その環境を再構築すると、「来院者に健康を支援するようアフォードする」可能性を模索できないか。仮に「待合室」の環境をそのように定義できれば、知覚者はその環境のなかから「探索」して情報を獲得し、発見できないだろうか?

全体像どころか部分も理解できておらず、かつスタート地点にすら立てていないので、この見立てはまったく的外れかもしれない。

とはいえ、本書のアフォーダンス理論は、Web屋の私にとっても情報アーキテクチャを設計する場面で非常に役立つと思う。なにより、本書曰く環境は潜在的な可能性の「海」であり、私たちはそこに価値を発見し続けているなら、知覚者である私は、この新しい認知理論にいつか価値を見いだせるのだと愚考。

「”読む”とアフォードされた」と知覚した方にはおすすめ。