[Review]: やがて消えゆく我が身なら

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)

「身も蓋もない話」を「身も蓋もある話」に読み手が変換できるかが問われている。

自分で言うのも何だけれども、私の文章や主張には身も蓋もないものが多い。「身も蓋もない」を手許にある大辞林(三省堂)で引くと、表現が露骨すぎてふくみも情緒もない、と書いてある。ある主題について理屈を詰めていけば、ふくみや情緒などはなくなってくるのは当然だ。身も蓋もない私の主張に対する曲解や反論を読むと、人々が死守しようとしているのは結局は情緒であって、論理や理論ではないことがよくわかる。

『やがて消えゆく我が身なら』 池田 清彦 P.229

この著書をレビューできるほどの技量が私にはない。稚拙な文章で要約すれば曲解を与えるだろうし、かといって文脈を切り取れば、まさに「身も蓋もない」フレーズばかりに覆われる。できたことといえばただひとつ。「身も蓋もない話」を私にとって「身も蓋もある話」にするにはどうすればよいかを悶々と自問した。

2002年5月から2004年10月まで「本の旅人」に連載されたエッセイをまとめてある。日常の話から政治にいたるまで幅広くとりあげている。一見何気ない話が「死」へと結びつく。ただし重くない。代わりに「身も蓋もない」のである。

大分前に、余りにも多忙を極めていた養老孟司に、「養老さん、人生は短い。働いているヒマはない」と意見したことがあったけれども、最近では「金をかせいでいるヒマはない」と意見をしなければならなくなったようである。人は働いて金をかせぐために生きているわけではない。同P.165

意見された養老孟司氏は本書を「本当のことをこれだけはっきり、短く書く人はいない。しかも笑える」と評している。文脈だけ切り取ると刹那主義や快楽主義かと見紛う。そうではない(と思う)。茂木先生が指摘するように「助かる確率は50%です」と言われても、ヒトの死亡率は100%である。誰であろうと同じである。手帳には過去・現在・未来の予定が書きこまれているが、「死亡予定日」を書いている人はいない(もしくは少ない)。わからない。だからこそ「生」が輝く。

「死」に対して冷静に向き合えば向き合うほど、「生」がおもしろくなる。楽しくなる。かけがいのないもになる。その後はただ「死」だけだ。そしてヒトだけでなく考察の範囲をヒト以外の生命にまで拡げたとき、「多様性」の意味が少しだけ理解できた。まだまだ私の「多様性」など「原理主義」にすぎない。

人間は己の情緒を他人に押しつけたいとの欲望をかなり普遍的にもっているのではないかと思う。政治も戦争も宗教も、このパトスのなせる業であるに違いない。私は自分の理屈を他人に納得してもらおうと努力したことはあるが、自分の情緒を他人と共有したいと思ったことはあまりない。

自分の情緒を他人と共有したい—–書くのは簡単であるが、行動するのは難しい。右からは左と言われ、左からは右と揶揄される。それが人の集団だと私は思う。集団が一斉に自分たちの箱の中にはいったとき、箱の外にいる人に対してどのようなふるまいをとるだろうか?身近に言葉がある。私がふだん使っている言葉のうち専門用語を除いて「私」を説明するとき、語彙が限定されるのにおどろく。専門性が高い集団は「専門用語」を使う。それ自体の是非を問うつもりはない。ただ、「専門用語」の使用によって「思考停止」に陥っているかもしれない「私」をその集団は常に疑っているのだろうか、と首をかしげる。専門用語は思考の免罪符なのかもしれない。これを私はもっとも恐れる。

私には著者のような達意の文を書けないし、まだ「自分の情緒を他人と共有したい」とどこかで思っている。だから「多様性」を認めているようでそうでない。実は、「多様性を認めている私」は他者にはどう映っているのかを気にしている「私」にすぎない。

以上が「身も蓋もない話」を「身も蓋もある話」にわずかながらにでも変換しようと試みた愚考である。