[Review]: 生涯現役

生涯現役 (新書y)

「自然に老いる」のではなく、「急速に老いる」のが何もしないまま老いてゆくことだという老人の叡智に感謝した。

黙っていたら老いなんて誰にでも同じようにやってくるなんて思っていたら、それは間違いです。ぼくも自分が歳をとるまではそう思っていたわけですけど、それは大きな勘違いで、若いときの錯覚とでもいいますか、実際はそうではないんですよ。自然に老いるためにはね、[…]からだを動かすことをやめちゃ駄目ですね。やめたら急速に老います。『生涯現役』 P.20

ここ数年、「老いる」を頭の片隅においている。わかるはずもない。35歳目前にして、数年前は「折り返しか」と感慨深いものだと待ちかまえていた。が、今は違う。「折り返しも何もない」と感じ入るようになった。明日どうなるかわからない。だから一生懸命と怠惰が交錯している。今、「老いる」をいくら思念しても、「あ〜ぁ、わからんわ」と韜晦するだろう。が、いずれ膝を打つ機会にめぐりあえるかもしれない。ややもすれば、老いることなく生を了するのもありうる。そうなれば、結局老いるって何なんだと間際によぎれば吉。

目が衰える、耳が遠くなる、気管に食べ物の切れ端が入れば咳き込まずに呼吸困難になる、おむつをはくほうが楽になる…..老いるというのは、今のままゆるやかに、自然の流れに身をまかせて老いるのではない。それはやがて呆けたように「外部」からは映る。が、「内部」はそうではない。「外部」と「内部」の違いが本人以外わからない。

自然の生理だから逆らえない。からがの動きが鈍くなれば、歩く範囲が狭くなり、すると思考の範囲も狭くなる。

お医者さんは患者を外から診るのに対して、患者は自分を内から診るといい換えてもいいかもしれませんね。元気に働いているときは[…]病気なんか医者にまかせとけって感じでずっとやってきてる。それが歳をとって急激な衰えに吃驚しちゃって、関節が痛いとか耳が遠くなったとか、痰がからまるようなったとか、いろいろどうしようもないことが起きてきたときなってはじめて、人によっては摩ってみるとか擦ってみるとか触ってみるとか、内側から確かめて少しずつ動かし方を工夫してみるとか、お医者さんにはできない自分なりの診方をするようになるんでしょう。同P.24

筆者は吉本隆明先生。(言うまでもなく)戦後思想の巨人。本書からは「普通」の老いをしていない先生がかいま見られる。その先生が「狭い」を認識している。では、そうではない人々の「狭い」を周囲はどう受け止めればよいのだろうか?

それを私のような心ない人間は「老害」と揶揄嘲弄する。他方、報じる側は禁忌を犯してはならぬごとき老いを賛美する。立場は違えど極性にすぎない。「老害」と一言で片づける前に、眼前の老人がどのように老いてきたかを慮り、結果、「狭い」という事実をのべ、老いとの「折り合い」をつけるゆとりが消失しつつあるのではないか。

政治や経済、経営に目を移したとき、老いの狭さがもたらす通弊は存在する。誤解を恐れずに申し上げると、老いの叡智を尊びても、ただ年を重ねた人もいる事実を私は忘れてはならない。善悪是非幸不幸ではない。十人十色の「老い」があり、どれが通弊であるのかに正解はない。しかし、私は衝突をおそれず「告白」してゆく。なぜなら、いずれ自分が何も考えずに歳をとり、「狭い」ことに気づかず過ごすから。「想像」を常にカウントする。想像は空論にすぎず、実際老いれば、まさに「狭い」のだろう。常に考えて達意ある文を書く先生ですら「狭く」なるわけだから、私はというと恐怖に震え上がる。老いてからでないとわからない。それを承知している。それでも狭くなる。

過去は過去ではなく、未来は現在の延長でもない。未来はまったく不意に訪れて捉えられない。「捉えられない」と「捉える」の狭間を跳躍するとき、私は先人の叡智を求める。その叡智の襷を受けとれば、同時に次へ襷をわたすための準備がはじまる。「数多ある老いのなかから私は何を選択し、何を選択しなかったのか。そして何を次へ伝承するのか」というメッセージを「老い」に向かって発話する。それが「老い」に対する礼節だと思う。老害でも賛美でもない。折り合いを共有してゆく礼節を常に求めていきたい。そんな気持ちにさせてくれたアフォリズムの一冊。