今日もまた”予防”へいく

本日、午後から東大阪へ。3ヶ月に一度の歯科定期健診。今回は事前に私から予約をしていなかったのでハガキがきた。日時に指定してあり、その日時でいかがですかと。もちろんOK。ハガキに「検診」の文字。私の頭のなかは「健診」。違いはどうでもいいといえばどうでもいい。けど、どうでもよくない場合もあったり。で、さらにややこしいことを書けば、健診すら私の頭からなくなってくる。予防もナイ。ただふらっと行くような気分。そんな歯科医院であってほしいと常々願う。勝手な願望。まだフラっといけない構える自分。情けない。

この時期、平成20年度診療報酬改定の基本方針をめぐってにぎやかだ。医療を受ける側の人たちは関心を持たないかも。診療報酬の引き下げや据え置きは、回り回って私たちにふりそそぐ、なんて実感はともなわない。「保健制度があたりまえ」だと思っている。保健制度の金じゃなくトータルな質が破綻している地域があっても。

虎の尾をふみたくないので突っ込んだことを書かない。11月、草津にある大病院へ何度も足を運んだ。広い総合待合室には朝からマスクをした人々。インフルエンザだろうか。わからない。何度も言う、虎の尾をふみたくない。

「あたりまえ」だから気兼ねなく通う。それはそれで当然の権利だろう。中学校まで「タダ」という地域もあるらしい。少しでも不安なら待っても受診する。他はあまり芳しくない評判でも、私が並んでいる病院はいい先生ばかりと笑顔で。子どもから大人までいろんな”顔”で待つ。

国、というよりも”知らない人”たちが医療を司る。その人たちは、「ほら、いざとなったら自分たちは紹介してもらえるから」と心中あるのかもしれない。とんちんかんであろうがなかろうが、医療の方向に正解や間違いがないかぎり、”削る”ことしか考えない。正解があると思うから歯車が狂う。で、その反動が産科のようにやってくれば、ちょっと手厚く報酬を算定する。「算定」だ。

教育も医療も、私には埒外だ。専門的知識や現場を知らない。ただ、患者として観察しているだけ。それだけとはいえ思う。もう現場に任せたらどうだろう。というよりも、NPO(このネーミングがトレンドになっているので使いたくないけど)というか、まぁどんな組織か興味がなくて、とにかく情熱を持って自らの考想を実践しようと駆けめぐっている人はいるはず。その人たちで十分じゃないか。

その人たちは私に何を教えてくれるか。何も教えてくれない。ただ自立した生活を営めるよう示唆を与えてくる、あるいは耳を傾けてくれる。それがどれほどありがたいか、どれほどの救いを与えてくれるか、どれほど感謝をささげるか、”知らない”人は知らない。あたりまえか。対処療法を信仰(しているのだろう)。

どこかの知事が発言したフレーズに揚げ足をとって報道する。どっちもどっちだ。自分たちが若かりし頃を顧みず、生まれたときから今の「地位と思想」にあったかのように若者を律する。時間軸が短い。それがどれほどの負を与えているか想像せず。礼節を忘却した知事と報道が規律を論じるアイロニー。韜晦、この批判も揚げ足とり。お前は知らないくせに書くなと私が言う。

医療の待合室をながめるとそんな雰囲気を感じ取る。どっちもどっちだ。虎の尾をふみたくない。

自省した人はおのずと医師に出逢うだろうし、互いが吸い寄せられるだろう。頭がとんでもなく悪いのでロジックを書けない。ただ吸い寄せられる、そんな非論理的な感覚しかない。地域やNPOいう言葉、衒いがあるのであまり用いたくないけど、そんな人たちはゴマンといるはずだ。

それで十分。