感謝と反省

昨日、大阪のF先生へお伺いする。サイトの打ち合わせとはいえ、私の製作が遅々として進んでいない。それを負い目に感じつつ医院へ。

打ち合わせでのF先生は、私に余計な負荷を微塵も与えまいと穏やかに応じてくださった。それが何よりもありがたい。

別段、サイトのページそのものを打ち合わせするのじゃなく、F先生とスタッフのYさんをまじえて、「歯科医療」について行き交う。「」に括ったのは理由がある。

便宜上、「歯科医療」と表記したけど、実態は「まだ生成されていない言葉」で茫々たる医療。医療と表記するのも憚られる。

そこにF先生を核としたF歯科医院のチームが伝えたい、実践したい「現場」がある。現場のいきいきした顔ともどかしい身体をどれだけ受け止めて表現できるか。そこに私がかかわる意味がある。意味というよりも私はそこしかかかわれない。

そのあと、医院のみなさんと酒酌み交わす。みなさんお疲れのところ、F先生は心身ともに鞭を打っておられるにもかかわらず、深夜まで。

医療はもちろんのこと、果てはここで書いてはマズイことまで(すみません、居酒屋で)。おまけに私自身の恥まで気持ちよさにかまけて口をすべらせてしまった。

言葉は有限だ。なのに言葉を連結させた意味、その裏側にある考える私は無限。他者は無限の外側に立つ。絶望の向こうにいるわからない存在。「見えている」のに「視えない」存在。その方々を経由してしか私を体感できない。

言葉を知れば知るほど、ことばのあやうく、もろく、じれったい、もどかしい顔がすっと現れる。その瞬間、「語れない」と「聴けない」が同時にふりかかる。

すると沈黙はやってくる。でも、その沈黙を受け止めてくれる人たち。沈黙をおそれないから、大声で語る喜びを知る。自分の意見を言いっぱなせるおだやかな空間、それが心地いい。たおやかな時。

やがて、自分の語りが閾値を超えたとき、語りすぎた自分に気づき反省。秘すれば花という。言わぬが花というのか。そして自分が発した言葉の無責任さに打ちのめされる。言葉というおそろしい凶器、何食わぬ顔で凶器をあつかう私。

感謝と反省、この循環が答えのない問いに我慢する力を涵養する。

だからダイアローグ、ひとりで聴けないし、ひとりで語れない。

ほんとうにありがとうございます。そしてとってもステキな時間と空間と酒と食をごちそうさま。