批判と自己言及

F先生の批判社会 を拝読。はじめてお目にかかる言葉をたくさんもらった。うれしい、ぼちぼち学んでいきます。批判が社会を喰い尽くすを読み返していつもの命題に突き当たる。

自己言及のパラドックス

三十路に抱えた命題。遅すぎるだろというツッコミは堪忍してください。当のエントリー自体が「批判」であるから、またその批判も社会を喰い尽くす。手強い相手だ。

踏み込むなら「批評と批判」を峻別して書かないと。でも書けないからスルーさせていただきます。そんな難題を解ける知性を宿してないので。

で、「ことば遊び」に戯れる。

命題の証明を担保するのは誰?

批判する人は、「ある命題が真」を証明するぞとがんばる。「医療、学校、役所といった公器を批判すれば、その批判によってシステムの脆弱は改善され効率が向上し利益を享受できる。だから我々の怒りは正当だ」という前提にたって証明しようと奮闘する。だけど、その証明が妥当性であるかどうかを判断するのは、「批判する人」じゃない、と私は思う。批判する人が定めた前提から証明まで、それを批判する人自身が「判断」してしまっている。他者の承認が欠落していないかなぁ。

判断するのは、「神の手」といったり、今なら「市場」とか。変数に市場が代入されると「原理主義」のスイッチがオンされて闘争がスタート。

独断と偏見。「ある命題が真」という証明を担保しているのは「全体知」。それは鵺のような存在。そしたらまた最初の命題に突き当たる。じゃぁ「全体知が真である」という証明を誰が担保するのか。誰にもできないだろう。それを「神」と代入しないでね(笑)

担保しようとすれば循環論証にストンと落ちる。

「全体知は真だ。だから正しい。なぜ正しいかというと真だからだ」

むちゃくちゃだ。でもありうる?! だって、結局、自分の耳と鼻と目と口、そして手足から「判断」しないと生活できない。ややこしい。

事実はひとつという誤謬

「事実はひとつ」だろうか? 事実はどこから発生して何に依拠しているのだろう?

社会はときに願望を「事実」と認定してしまう。ぱっと思いつくところでは、マイナスイオン とか。先頃、「科学的根拠なし」と東京都から勧告された。「東京都」ですよ。でも、どこかで「効果」を願望してたりしてへんかった? 社会の願望が閾値(それを定量化できるかどうかは謎)を超えたとき、願望が「事実」に。

ここ数年かな、ニュース番組を吟味するようになった。怖いから。映像と解説が懇切丁寧に流され、ときに批判もインストールされている報道番組。だけどそれらは「事実」なの?

「それはあなたたちの事実であって私の事実ではないのかも」

と気づいた。バカと己を罵る。いまごろ気づいたのかと。何度も。しつこく。マゾか、というとそうでもない。どちらかというとサド。ただ己の愚考はトコトンMの悪寒。せめるよ、己の馬鹿さ加減。ときに被害妄想が膨らむと、「それはF館さんやT紫さんの「意見」だろう」と暴れたり。こわいよな。自分の頭の中って。

BSやCSに加入していないのでNHKの19:00のニュースかニュースJapanぐらいだと、「そのまま」流すのは。これも自分で判断しただけで他人は違うだろうし。

批判の商品化

どうしてこれだけ批判が跋扈するのかな。それは先のエントリーでもふれた「批判のテンプレート化」。「おや、オレはこんなこと考えていたのか」と訝りながらキーボードを叩いていた。

批判がテンプレート化され、アクセスフリーになるとコピー&ペーストで商品化できる。ひょっとすると、批判は「商品」になったのかもしれない。購入して「消費」しちゃう。消費しちゃえば何も残らないし「言葉のチカラ」と喧伝するだけあってエコ。「何も創造しない」から。

批判が商品として成立するのは「市場」があるから。「価値」があると誰かが判断したから「市場」に投入される。そして「市場価値」に変換して形成されゆく。

でも、「批判が市場価値として成立する空間」そのものを問うなら、「批判」以外のたつきの道を私は確保しなくちゃいけない。「立ち位置が違うよ」というポジショニングトークでは「「批判が市場価値として成立する空間」の「中」にいる。自己撞着。

ただそのたつきの道を「言葉」にできないし、どういうふるまいがたつきの道であるのか。それを私は知らない。だからやっかい。

で、もう少し書きたいけどここまで。続きはのちほど。次は「批判する人」を司る「言葉」についてもがきたい。