素材

2011.01.24 晴れ

睦月、最後の週。iCalの表示は一日のコマを間違いなく進める。なのに自分の内側の時間はアイドリングしているような。アイドリングならマシでストップかも。いったい何してたんだろ。なあんにもしてない気分。焦ってるなあ。

F社のログをチェックしてサイト制作。思案投げ首。結局、元にもどる。”インタラクティブなサービスを提供しないサイトのコンテンツは?” ここにもどってくる。ユニクロや無印良品はオンラインストアを持っている。両社がもしオンラインストアをやらなかったらと考える。そういうブランドのサイトは実際にある。コーポレートサイトとウェブサービスの中間って難しい。歯科でも同じだろう。歯科のサイトは同工異曲へ拍車をかけている。

科学と技術は世界を小さくした。そして世界を言葉化させた。TwitterとYouTubeとRSSにアクセスするとそう感じる。新聞を読まなくなって久しい。新聞は二段階の衝撃を受けている。一つ目はインターネットの登場。二つ目はソーシャルネットワークの登場。

新聞は事実を報道している。日々の膨大な事柄から素材を選択する。選択眼は品質管理の一つだと思う。選択された素材を伝える。素材はありのままではない。素材に意見が挿入される。素材と意見のセットが付加価値。素材と意見をうまくまぜる。まぜかたは定型化されている。定型化が新聞社の筆力。それが新聞社側から見た事実。新聞社が素材から切り取った事実。

他方、意見が挿入されるから中立性が問われる。そんなものはない。新聞社自身も中立生を取り上げる。「社の特色」と「公共の中立」の矛盾を抱えて書く。一つの事柄を煎じ詰めて中立を取りのぞく作業を意見だと僕は思う。

インターネットが登場するまでは、矛盾を気にしなかった。マイノリティや専門家だけが気づいていた(と想像する)。その人たちは記事の論点を指摘する。テレビかラジオ、あるいは紙媒体で反論する。新聞社は系列メディアからやってくる反論をスルーできた。スルーというより抹殺かな。論壇や学会誌などマイナな媒体へ反論を掲載できても、伝達効率はかんばしくない。

インターネットはユーザへ価値を再定義した。新聞の「意見」に対する価値。新聞社の意見へ反論するサイトが現れた。特にブログが登場してからはいわずもがな。

特定分野に造詣が深い人や専門家が書く。わかりやすい。論点は整理されている。事実と意見を峻別している。「理路を丁寧に説明する」人の筆力は、「定型化の書き方」だけを教わった人の筆力を凌駕する(あたりまえの話ですね)。

次にソーシャルネットワークが素材と即時性の関連を際立たせた。事実をありのままに提示する。日々の膨大な事柄から素材を選択するのは新聞社じゃない。それを選択するのは「誰か」だ。誰かがYouTubeにアップしたり、Twitterでつぶやいたり、ブログで更新する。それらがRSSで流れてくるしFacebookが伝播する。

ガラケーとスマートフォンは「あっという間」に伝達する。ほんとあっという間。新聞はそのスピードへ追いつけない(追いつく必要はない、追いついたらオシマイだと思う)。サイトのニュースを翌日の朝刊で読むような状況。

ソーシャルネットは発生を知らせてくれる。何を起きたかだけを真っ先に知りたいならそちらへアクセスすればいい。ただ見聞した発生の素材を調理する力はない。だから「専門家の意見を待つ」がコメント欄に現れる。ファストフードと同じファストナレッジ。目的はいろいろ。吟味する力をつけたいから誰かにさもありなんでしゃべりたいまで。

自分がアクセスしている”ネットの知識”を他人はアクセスしていない。なぜだか知らないけれどそんな感覚があるようでおもしろい。自分だけの金脈を見つける。一昔前のアメリカで流行したマーケティング手法を翻訳してそのまましゃべるのと同じ構造がネットでもちゃんと成立している。

インターネットは「意見」の価値を再定義し、ソーシャルネットワークは「素材」の即効性を再定義した。インターネットとソーシャルネットワークは新聞のビジネスモデルを破壊した。

ずいぶんはしょって書いちゃった。ちゃんと回り道して注意深く書かなきゃって反省。反面、長くなるしなぁとも。このテーマについて思う所を書くにあたって僕の頭の中に前提と文脈があって、それらの一部分を切り取って書き出す。その時、自分が勝手に了解している前提や文脈をとばして書く、または書いてしまう。で、読む方はわからない。たぶんこのあたりに対話の妙が隠れている。

物語を物語るとき文脈が隠れている。対話の妙、あるいは醍醐味、なんだろ難しさ? 対話って、物語を物語っている人の背景に隠れている文脈を引き出して、前提をいっしょに書き換えていく共同の作業なのかなって映像が頭の中でおぼろげに再生されてます、この頃。

世界を言葉化させた、は明日。