希求

2011.01.25 晴れのち曇

第七十一候、水沢腹堅。滋賀県の北の方面や山間部では最低気温が氷点下だろな。水が凍る。氷点下の最低気温を記録しながら春の気温へ漸近する。今が旬の食べ物がある。食べ物の嗜好は時代によって変わる。四つ足を忌み嫌っていた時代、鮪は卑賤な魚だと評価されていた時代。味覚とひょんなことからの関係はいつの世でも摩訶不思議。

月曜日の16:30から17:30までF社で打ち合わせしたので、その内容にそったサイト制作。月曜日は京都駅から河原町五条までを歩いて往復した。暖かい。京都は千年王城らしい進化。激変する大阪と連動しない。駅前のビッグカメラとヨドバシカメラは残念だけどしょうがない。キャピタリズムとの折り合い。

昨日の日記で科学と技術は世界を小さくした、と書いた。なかでもインターネットとソーシャルネットワークは世界をぐっと縮めた。そして世界を言葉化させた。今日は世界の言葉化について。これもまったくまとまっていない。いつものように即興で思いつくまま書く。

“語彙”を広辞苑で調べたら、「一つの言語の、あるいはその中の特定の範囲についての、単語の総体」(広辞苑第六版)と書いてあった。自分の持っている単語の総体が拡張したら語彙力が増加したと判定できる。では語彙が増えた実感はいつ? いかなる形で?

ボキャブラリにあこがれる。三島由紀夫の真似をして辞書を読む。寝る前に少しずつ読む。増えた感じはまったくしない。ましてや賢くなったなんて皆無。つたない文章とつたないしゃべりは知性とは絶無、豊穣とは無縁。それでも僕にとって書くコトは自慰行為みたいなもんだ。

書くとわかる。単語を知れば使える単語は減っていく。一時的であっても減る。どうして減るの?

中学・高校と日記をつけていた。読むのは自分だけ。充分な気づきはあった。今は当時と違う。インターネットを使って自分の文章を公開する。他者の文章を読む。あの時と今の気づきは異なる。「言葉」と「解釈」の関連を強く意識するようになった。あの時、言葉と解釈は私の中で閉じていた。

たとえば認識や実践、観察、評価といった単語を僕はわざと使う。単語の意味を咀嚼して使いこなせるようになりたいから。的確に表現したいので練習する。

それらの単語を見る側の解釈は一様ではない。典型的な例は、素人と専門家の関係です。科学者や学問の中にいる人が読めば、「そんなところで認識という単語を用いるのはおかしい」と指摘される。観察も実践、評価も同じ。

解釈には二つある。単語そのものの解釈と文章の解釈。二つの解釈を自己参照しながら全体の文脈を解釈する。読むという行為は二つの解釈を統合していく解釈の仕方と思う。

解釈は環境と結び付く。書き手と読み手はどこかに属している。属性で使用される単語と言い回しがある。医療、教育、法律など社会的共通資本に属する人から企業、そして家庭、他いろいろ。

僕にとって一般用語であってもある人にとっては専門用語や学術用語であったりする。属性の環境が解釈に影響を与える。

インターネット、とりわけ動画をのぞいたテキストは「解釈」をオープンにした。それぞれの属性の内側にいる人たちが交換していた解釈へ外側の人たちはアクセスしはじめた。

解釈は共有にむかって漸進する。議論は漸進の途上にある。言葉を使う。僕が解釈している「認識」と他者が使う「認識」は一致しない(するわけない)。「誤解への恐れ」が生まれる。恐れを克服できるまで「認識」という単語をひかえる。こうやって一つ一つ覚えてきた単語が抽斗にしまわれる。暗記しただけでは抽斗を開けられない。自分の経験と単語の意味を関連づける。経験と意味の融合が私の解釈を生む。

こんなことは別にインターネットが登場したからって騒ぐほどじゃない。作家の先生方やプロの書き手は、ずっと昔から経験してきた。どう解釈しようが読み手にまかせる。そう理解している。

じゃぁ、なぜわざわざインターネットなのか? そこがまとまらない。でもなにかインターネットなような気がする。今は。

言葉は記号だから時間的な劣化が少ない。言葉は美しいや醜いと評価されるのでアナログの印象を持たれるかもしれない。言葉はデジタル信号。言葉の役割は伝達だ。自分の思考を精確に伝達する。デジタル信号だからインターネットとの親和性が高い。

閑話休題: [ 伝達の記号である言葉に傷つく。傷つける。難しい。行動から傷つけられなくても言葉から傷つけられる、あるいは傷つける。言葉が傷つけるのか、言葉を使う人が傷つけるのか。伝達されたから傷つくのか。伝達されていなくても傷つくのか。これはまた別のテーマとして取り組まなきゃなって思う。 ]

インターネットは言葉の役割を僕に認識させた。一つの単語、一つの文章、一つの文脈には、多層的で多次元な世界がある。その世界を一義的に切り取っていく。属性の影響を受けた言葉を使って切り取る。世界の層を少なくして次元を下げる。その作業が「解釈の共有」なんだと僕は思う。共有しなければ破壊は生まれない。破壊が次の多層的で多次元な世界を創り出す。

解釈の共有に必要なのは? 尽くす、だなと思う。言葉に王道しかない、と感じる。「言葉」を言葉で丹念に説明する。誤解を恐れない。急がない。じっくりと。心して密に。”あきらめる”と”あきらめない”はその作業にいらない。そういう判断で言葉を捨ててはいけない。

インターネットが世界を言葉化すればするほど行動が際立つ。行動が賞賛される。皮肉だ。だけど「言葉」を言葉で丹念に説明する、という行為は行動と評価されない。インターネットがなかった時代の「思い想う人」たちは、言葉を駆使して自分の思考を丁寧に大胆に表現した。難解に表現した。

その人たちの言葉にふれると、書くだけでなく話す聴く、人の基本的な動作をもっと尽くさなきゃと思う。まったく尽くせていない。隣人からはじめよう。

例によってよぎる。「言葉なんてどうでもよいよな」って「どうでもよい」地点に立って見えないコトを探すのもアリだなって。