高飛車よりも歩でありたい

2011.12.30 晴れ

生活に弾力や抑揚がないので平常運転。クライアントのアクセスログを分析。アクセスログはサイトの事実を提示している。そこからサイトの不備を洗い出して対策を立案しないといけない。この作業が厳しい。仮説の塀を慎重に歩く。先走ると妄想の側へ転がり落ちる。

先日、高飛車であることを自覚するには何を気をつけたらよいか考えた。高飛車を自覚するのにもっとも必要な意識は何か? 言葉遣いかな。無知の知か。

違うなぁ。言葉遣いは必要条件? ではある(用法を間違えていたらはずかしい)。ちゃんと話すための敬語の本 (ちくまプリマー新書)をクリアしていていても居丈高である。適切な敬語 (講談社学術文庫)を選択しても嫌悪感をいだかせることもある。なぜだろう?

自分が中心なんだろうな。推測に推察を重ねて臆測の推理。

他方で私が高飛車と受け止める。だったら影響を受けずにスルーしたらよいのにとも思う。よしんば周りも高飛車だと感じたら、私見は客観性を高める。そうであってもスルーしたらよいだけなんだ。高飛車だと判断したがるのは、私が相手に執着しているか関心をいだいているから、影響を受ける。

自分を捨てられていない。もっと言葉そのものだけに意識を集中させて判断しなければならない。評価しなくてもよい人を評価したがるから高飛車と感じて動揺してしまう。そんなふうに自己分析した。