『議論のウソ』というタイトルが、「ウソ」であるところに著者の巧緻なレトリックが隠れているのではないだろうか。
「嘘」はまことにやっかいだ。「事実に反する(かどうか不明も含め)ことをあたかも事実のように言う」ことを意味すれば、「以前は事実であると信じられていたことが間違いと判明した事柄」とも解釈できる。さらに、"嘘のような"といった比喩があるように、「事実を信じたくない気持ちにさせる」という便利さも備えている。はたまた「嘘から出た実」なんてアイロニーなことわざもある。
しかし、わかるということは、単に文字面を追い、それを記憶に留めることではない。それを自分自身の問題として受け止め、かかわってみることである。「わかる」というのは、「かかわる」ことである。(中略)それができないときは、とりあえずわかることを留保することである。「わかる」ことより、「わからない」ことを自覚していることの方が、はるかに重要である。
何事にもスピードが要求されてきたこれまでの社会では、すぐに正解を求める。しかし世の中のことは、そう簡単に白黒つけられない。それを無理につけようとすると、どうしても、ありきたりの決まった答えに収まりがちになる。『議論のウソ』
本書は、4つの問題に絞って、それをしつこく詳しく議論(私感としては"主張")している。4つの問題は下記のとおり。
- 統計のウソ-ある朝の少年非行のニュース評論
- 権威のウソ-『ゲーム脳の恐怖』から
- 時間が作るウソ-携帯電話の悪影響のうつりかわり
- ムード先行のウソ-「ゆとり教育」批判から
1.は、「少年凶悪犯 10年前の倍」と見出しに書かれたある新聞記事に着目し、見出しを含めたリード文と内容を鵜呑みしてよいものかどうか、分析していく。その方法の一部を取り上げると、
- 「グラフ」の魔力-大いなる誤解「検挙数」
- 統計を「詳しく」見る
- 少年犯罪の処分を精査する
と具合だ。新聞記事の内容を詳細に吟味し、ひとつひとつ着実に論破していく。そして、「数字のもつ客観的な"量"と、数字の背後に横溢する"質"」を考察するリテラシーをもたなくてはならないと説いている。
以下、2.-4.も同様に、統計資料や学術文献などを引用し、それぞれの項目が主張する見解に反論を積み重ねている。反論を積み重ねる行程そのものが、「情報に騙されない」ための手法である。
世の中で起こっていることや言説には、必ずしも白黒がつけられない場合の方が多いかもしれないということに行き当たる。本書の辿ってきた道は、こうしたことであった。それは、「ウソ」を見抜く技術を述べてきたというよりも、「ウソ」は簡単に見抜けないし、そもそも「ウソ」とは簡単にはいえないことも多いのではないかという展開であった。P.208
愚見を晒すと、この引用部分をして、『議論のウソ』というタイトルが、「ウソ」であるところに著者の巧緻なレトリックが隠れているのではないだろうかと邪推し、同時に、少し残念でもあった。
なぜなら、「ウソ」に拘泥したためか、4つの設定問題いずれもが「ありきたり」になった印象を受けたからである。
その結果、「しかし世の中のことは、そう簡単に白黒つけられない。それを無理につけようとすると、どうしても、ありきたりの決まった答えに収まりがちになる」という筆者自らしかけたトラップにかかったような気がした。
本書の内容から類推して、
- クリティカルシンキングの説明
- アカデミックな論理学の解説
- 社会学系への批判
といったカテゴリーに分類して、要素比較すると、『哲学思考トレーニング』や『世間のウソ』、他に『人はなぜ騙されるのか―非科学を科学する』や『反社会学講座』などの方が、愚生にとってわかりやすかった。
特に、『反社会学講座』では、本書の1.のテーマについて、フレッシュな分析でラジカルな言説を展開していて興味深い。
そういった意味から本書と上記の書籍を読み比べると、まさしく「議論のウソ」を見抜く訓練ができたのかもしれない。