橋本治という行き方 WHAT WAY TO GO!

橋本治という考え方 What kind of fool am I

「一般教養」とは、「教養」の一部であり、「教養」のダイジェスト版で、「教養」のキィワード化を成り立たせる元凶となるものである。別に言い方をすれば、「教養」がただの「勉強」であるのに対して、「一般教養」は「受験勉強」である。「これだけのことが社会では必要とされる」と枠をはめられ定量化されれば、「教養」は「一般教養」になり、「勉強」は「受験勉強」になる。「一般教養」は「教養」の一部で、「雑」とは、「一般教養という枠組みの外に存在する、教養の一部」である。だから、「雑」は「教養」へと成り変わるし、「一般教養」は、「雑」を「雑」として排除する—–ただそれだけのことだろうと、私は思っている。

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キィワード式のダイジェスト型マスターは、「万感の書を読まなければならない教養主義に対するアンチだ」と、誤解されている。教養というものは、別に万巻の書を読まなければ身につかないものではない。必要なのは、所詮「何冊かの本」だ。何冊かの本の一冊一冊を納得のいくまで読み込まなければ、「教養」を「教養」たらしめる構造を理解出来ない。その根本がなかったら、本を何万冊読んでも同じだ。「万巻の書」という発想は、実は「教養」の発想ではない。これは、範囲を決める「一般教養」の発想である。「本を読むのをしんどいな」と思う人間には、その「範囲」が「万巻の書」のような膨大かつ巨大なものに見えるだけである。そして、「範囲」が決まっているからこそ、その「万巻の書」は、「これだけ読んどけば大丈夫」という形で凝縮(ダイジェスト)されてしまうのである。

夏休みになれば、出版社は「百冊の本」という種類のキャンペーンをやる。「万巻の書」が「百冊」に凝縮されるんだったら、それはたやすく「百のキーワード」に凝縮される。凝縮されたキィワードを水で薄めれば、「これだけ知っとけば大丈夫」の、範囲を確定した「一般教養」になる。もちろん、それだけで大丈夫のはずはないのである。

『橋本治という行き方 WHAT WAY TO GO!』 P.97-98

それでも「万巻の書」を求めてしまう「私」がいる。他方、「何冊かの本」を「何冊」に確定させられない、「何冊かの本」に気づかない「私」がいる。その「私」とどう向き合えばいいのか今の「私」にはわからない。