邦題は『「みんなの意見」は案外正しい』で原題は『THE WISDOM OF CROWDS』。2004年にH-Yamaguchi.netさんが紹介して、梅田望夫氏のThe Wisdom of Crowds by James SurowieckiとWisdom of crowdsで取り上げられてブロゴスフィアで話題となった。そしてついに404 Blog Not Foundさんに飛び火して、Apathy of CrowdsとEconomy of Wisdom Distributionがポストされた。その後、404 Blog Not Foundさんは“Crowds”は「みんな」じゃないをポストして、それが多数ブクマされるに至る。アルファブロガーを筆頭に「あちら側」ではすでに方々でピックアップされているので、愚生が今さらのこのこ顔をだすのは恥ずかしい。なので、これについては上記リンク先の秀逸なエントリーをご覧ください。私は自分の愚問を少しだけふれます。
この日、市場が賢い判断を下せたのは、賢い集団の特徴である四つの要件が満たされていたからだ。意見の多様性(それが既知の事実のかなり突拍子もない解釈だとしても、各人が独自の私的情報を多少なりとも持っている)、独立性(他者の考えに左右されない)、分散性(身近な情報に特化し、それを利用できる)、集約性(個々人の判断を集計して集団として一つの判断に集約するメカニズムの存在)という四つだ。『「みんなの意見」は案外正しい』 P.28
引用の話は、スペースシャトル墜落事故原因を、誰よりも早く察知したのは、実は「株式市場」であり、なぜそのような判断が下せたのか?—–について述べたもの。この4つが「THE WISDOM OF CROWDS」に必要な環境である。ちなみにWikipediaのThe Wisdom of Crowdsにはこの4つは次のように記載されている。
Four elements required to form a wise crowd
- Diversity of opinion
- Each person should have private information even if it’s just an eccentric interpretation of the known facts.
- Independence
- People’s opinions aren’t determined by the opinions of those around them.
- Decentralization
- People are able to specialize and draw on local knowledge.
- Aggregation
- Some mechanism exists for turning private judgments into a collective decision.
コレ、企業組織にスライドさせると興味深い。実際、リーダーは群衆の叡智を活かす適正環境を構築しているのだろうか、と首をかしげる。なぜ、リーダーかというと「決断の本質」にも登場したコロンビア号の墜落やケネディの失策が本書にも登場していて、なにかしら「決断」と「群衆の叡智」がつながっているような気がしたから。
本書の事例は大半が「問い」に対する「解」を求めるための「群衆の叡智」だと思う。「問い」とは、「ケネディがピッグス湾侵攻に失敗したのはなぜか?」という問いであり、すでに「起きた」ことに対する事象である。ただし、未来予測市場の話もでてくるが、これも「問い」があってはじめて「群衆の叡智」が活用される。
ということは、「問い」を立てる存在は?—–読書中、この愚問が私の脳裏によぎった。「そんなこともわからないのか」と叱責されるだろうし、揶揄嘲弄されるかもしれない。
なぜ、こんな愚問を思いついたのだろうかと内観すると、やはり自分の愚行に着地する。それは、本書の帯にある言葉、「Web2.0とは何か、Googleの使う「集団の知恵」(Wisdom of Crowds)とは何かが分かる!」が示唆を与えてくれる。
数年前からブロゴスフィアが形成され、Googleがそれらの「群衆の叡智」を探索して発見してくれるようになって、私の「無知の知」は明らかに変化した。しかし、その一方で、「いかに自分が考えていないのか」という「現実」を直視させてくれるようになり、それをなかなか認められない自分との闘いが始まっている。
というのも、たとえばある出来事が起きて検索をしてみる。ライブドアでも総裁選でも教育問題でもなんでもいい。その段階での私の「意見」は、まだアウトプットされる前であり、輪郭のぼやけた単語の集まりにすぎない。その時に、ある「叡智」に出会ったとする。すると、無意識的か意識的か判別しないうちに、「ああ、そうそう、僕の言いたかったことはそれだよ」と私は納得してしまう。途端に輪郭がはっきりした言葉の文章になり、文脈を形成する。度が過ぎると、「はじめからそう(出会った叡智)思っていた」かのようにふるまう。こういったふるまいは別にWeb2.0の世界でなくても、身近なところでは「本屋」に行けば体験できる。
しかし、少し待ってほしい。その「叡智」を書き出した人は、「なぜ?」という問いから出発して多種多様な問いを自ら発して、その問いに答えるべく書き出したものだ。その「問い」自体が外連味なく、他者とはひと味もふた味も違った視座に立っている。だから、「叡智」になる前の「問い」をのぞき見できないかぎり、私は自ら「問い」を立てたことにならない。そして、その問いを立てるよう修養を積まないかぎり、自分の規矩は形成されない。
自ら問いを立てる前に、もしくは問いを立てずに「群衆の叡智」に出会うシステムがあるとき、そのシステムにのっかているという自覚がないままさも考えているかのような錯覚に陥っている自分を認識していない(もしくは認識できない)—–私は何よりもこれをおそれる。にもかかわらず認識していない自分に遭遇する(=ずいぶんあとになって気づく)。
かなり回り道した。企業組織にもどったとき、「問い」をたてるのは誰で、その人(集団)と「群衆の叡智」がうまくかみ合う風土は一体どういうもので、どうすればそのような風土が構築できるのだろうか?—–この愚問がまとわりついた。